私とは②


私が「在る」という事実そのものがあなたに直接的に影響を及ぼす事はない。
私が「在る」という事実そのものがあなたに間接的に影響を及ぼす事がある。


間接的影響とは何か。
それはあなたの内側が私が「在る」という事そのものに対して示す反応の事である。
自己喪失した者は間接的影響を直接的影響として解釈する事で手っ取り早く他人の欠陥に没頭して自身の自己喪失から目を背ける事で頼りない自分を頼りないままで生き永らえさせようとする。

成熟というものは解釈に現れる。
そしてその解釈をするのは自分である。
自己喪失というのは成熟に対しての拒絶である。
そもそも成熟などしたくない。
未熟である事をやり切りたいという原動力が何処かに存在する。

自己とは解釈する為に存在している。
あらゆる外部からの情報や刺激に対してどう解釈するかという役割を担うのが自己である。
「我思う故に我在り」の本質は何らかの情報や刺激に対して解釈する事によって「我在り」と感じられるという事にある。

解釈する事そのものを拒否する、あるいは誰かの解釈を乗っ取ろうとする事は自己喪失感をより強めるだけになる。
我々は常に自己という独自の機能によって解釈する事が求められているのである。

その時々で都合の良い解釈をするという自動反応の存在を忘れてはならない。
まさにこれが偽者の自己に振り回されている時の典型例だからである。

自己というものが何かに乗っ取られているなど"本来的でない自己"を持つ時には必ずと言っていいほど解釈にエラーが生じる。
自己喪失とは本当に自己が無いというよりも厳密には「分からない」とか「本来的ではない」とか「分離している」とかそのように解釈できるだろう。

「私はこうである」という自認に対してそのような自認をしている私に対して思うもう1人の私が何処かにいる。
そのもう1人の私というものを自認することが困難になるのが自己喪失の本質と言えるだろう。
「私はこうである」と自認している私と無意識領域の中に追いやられてしまったもう1人の私、この2人の私によって生じる無限のパラドックス。

それはまるで不規則に割れた鏡同士を向かい合わせたような歪で無秩序な世界。
どれが現実でどれが夢幻であるかも分からない。
統合できない無数の私の破片が脳内を駆け巡る。


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