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ハイヒールと、鉛筆と。

雑踏に紛れたとき、自分のハイヒールの音が聞こえなくなっていることに気づいた。
ひとりで歩く道ではあんなにもはっきりと聞こえていたのに。

地面と足とがぶつかる感触はこんなにもはっきりしているのに、音だけが聞こえてこない。
他の人の足音に紛れたとかではなく、私のヒールの音だけがすっぽりとこの空間から消えてしまったようだ。

前から後へ、右から左へと流れていく人たち。
人が集まった場所の、少し生温かい空気の感じ。
流れる駅のアナウンスと、連れ立った若者の笑い声。

この感覚はあれに似ている。

無心にSNSを上から下へとスクロールしていくときの、あの感覚だ。

めまぐるしく移り変わる人々の姿の中で、自分がゆっくりと散らばっていくような。
自分が誰なのか、少しずつわからなくなっていくような。
差し出した手のひらが、宙を掴んでさまよってしまうような。

そういうときには大体、自分のからだがだんだん重くなっていって、このまま泥だらけの地面の奥の方まで潜っていってしまえばいいのにと思う。

だから、私は私自身を思い出さなければならない。

私の足音を聞かないといけない。
地を踏みしめる足裏を、しっかり感じないといけない。

それなのに、ときどきハイヒールの音が痛ましくなるのはどうしてだろう?

硬いコンクリートに突き刺さるヒールの音は、私を指差して、そのまま刺し抜いてしまう。

ひとりで歩く夜道に響くハイヒールの音は、私がそこにいることをあんまりにも強く知らせすぎる。私自身に。
そうやって自分の心の中を見つめすぎると、見られるわたしは悲鳴を上げる。

だから、もっと優しい音がいいのだ。

たとえば、日記を書いているときの音のような。
紙のこすれる音、鉛筆の芯が紙面に跡を残していく音。

書かれていった文字のひとつひとつは、私がそこにいるのだということを、そっと私に教えてくれる。

絵を描くときもそうだ。

その音は、ぬかるみにはまりかけていた私を引き上げて地上に顔を覗かせてくれる。
そして私はまた、息ができるようになる。

だから私は、ものをかくのが好きだ。

私が私であるためにものをかく。

柔らかなあの音が、私を支えていてくれるのを知っているから。




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