見出し画像

暮らしの所感を綴った散文詩「ちくちくしない音楽」「プチ・ジレンマ」「インディゴブルーの夜に」

ちくちくしない音楽

心の容量がいっぱいになってしまっていると、
あたらしい音楽を聴くのをどうも億劫に感じてしまう。

聴こうと思えば聴けるのだけれど、
その「あたらしさ」という名の彩りが
やけに極彩色のように目には映って、
胸をちくちくと刺す。

敏感になった肌には
少しの刺激が痛く感じられる、
それとおなじようなことなのだろう。

そういうときは慣れ親しんだ歌に耳を委ねる。


そういえば、
わたしは日本で生まれた生粋の日本人であるのに、
たまに日本の曲調よりも
慣れ親しんだ海外の曲調の方が
耳にやさしく感じられるときがある。

ちくちくしがちな胸にも、
すっと溶けこむやさしさ。

生まれもったものも大切ではあるけれど、

もしかしたら時には、
ちいさな日常の中で
積み重ねてきたもののほうこそが
わたしの「こころ」や「せかい」を
作ることもあるのかもしれないと、

こういうときには思ったりもする。


プチ・ジレンマ

わたしはやさしい人間ではないのに、
ひとの心のうつくしさを信じてしまうから、

わたしは強い物言いもするのに、
ひとの心の繊細さを信じてしまうから、

たまにくるしくなって
じぶんがよくわからなくなる。



インディゴブルーの夜に


その「うた」に、終わってほしくなかった。

ずっと待っていた、大好きなひとの新曲だったから。
初体験は、もう二度とやってこない。

そのうたを知らなかった頃の私の真っ白な心臓を、その「うた」は深い青に染めていった。

青にふれた瞬間の、心臓の感覚。
ちいさなひとつひとつの細胞が、青に反応して震える感触。

それらを忘れたくなくて、すこしでも多く感じたくて目をしっかり見開いて聴いていたのに、
気づいたら疾風のようにうたは過ぎ去ってしまっていた。

ぽつんとひとり取り残されたわたしの心臓が、
青い色の中でどくどく脈打つのを感じる。

彼のうたを知った心は、
前よりもすこし分厚くなった本のように、
青の中で、やさしく息をしていた。

このうたに重ねられる想い出を待っているかのように。
わたしの人生の景色が、うたに色を重ねていくのを待っているかのように。


肌寒い、インディゴブルーの夜のことであった。




さいごに

三つの詩を書いてから出すまでずいぶん時間が経ってしまいました。
「インディゴブルー」で書いている曲の発売日が12月2日ですから、だいぶ出すのが遅いですね笑。

今回は特に意図したわけでもないのですが、音楽を聴くことに関する詩の内容が多くなったようです。
ちょうど、音楽鑑賞について豊かな言葉で批評されている素敵な本を読んだところだったので、触発されたのかもしれません笑。

私は音楽に造詣が深い方ではありません。悲しいことに、全く。
聴覚よりも視覚の方が敏感な生まれつきのようで、どちらかというとビジュアル・アートに親しんできた記憶のほうが人生でも多い気がします。
なので、音楽で自分を表現されている方、優れた耳をお持ちの方を見ると、なんとも言えない「あぁ、いいなぁ」といった羨ましさが胸に募ります。

私はほんとうに知識がないので笑、通り一辺倒のことしか言えないのですが、それでも音楽というものの持つ「体験」性や「生活への馴染み深さ」については深い憧れを感じます。

音楽は時間と共にある芸術だから、聴衆はそれを聴いている間はその世界を肌で感じていられる。没頭できます。
それでいて他の作業の邪魔をしないから、たとえば勉強をしながらとか家事をしながらといったときにも「聴き流し」が出来る。
せっかちな現代社会の隙間にすぅっと入り込んでいって生活の豊かさを底上げしてくれている感じはとても素敵だなぁ、と思います。

(それが音楽を専門的にやっておられる方にとって最も好ましいことなのかはわかりませんが…失礼でしたらすみません)

そんな「音楽を聴く」ということとは、真ん中の詩は少し異なる話をしています。
自分が生活の中で背負ってきた、背負っている罪のようなものについて。
ここではこれ以上は述べませんが、いつも見つめて、向き合いながら生きていく必要があるのだろうと感じていることです。

それでは、本日はこの辺りで。

皆さまの日常に、一分一秒でも穏やかな時間が多くありますように。
最後までお読みいただき、ほんとうにありがとうございました。


Mei(メイ/明)

この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?