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168/* 「感動」は第六感的感情だ

僕、youtubeが割と好きです。テレビをつけて、面白そうな番組を探して、落ち着くまでって、なんだかハードルが高いように感じてしまっていて、その点youtubeは好きな時、好きなところで、見たい動画をみることができるのですきです。

ワイワイした雰囲気を欲しているけど過度なバラエティはいらないなー、なんてわがままにも大抵答えてくれるので重宝しますよね。お笑い、音楽、食、その他、、TV番組の流用もあったりするけれど、youtuberたちの活動は他分野に渡っていて、大抵の話題について来てくれます。

でも、youtubeを観ていると時々、これで本当に満たされているんかなー、という気持ちがふっと湧いてくることがあります。例えば長編小説を読み終えたときのような、劇場で映画や舞台を見終えたときのような、充足感を与えてくれるわけではないかなー、と。

現代人は文明の発達によって、平安時代に生きる人間一生分の情報量を1日で消費している、って話ご存知でしょうか。twitterをパーっと流し読みしているその瞬間ですら、平安時代では一年分ぐらいの情報量をどっと流されているようなのです。

僕には平安時代から今現在までに、人類の脳がそれだけの情報量を的確に処理しきれるほど発達したとは思えないので、おそらく垂れ流しにされている情報のほんの僅かしか理解はできていないんじゃないかと思います。いわば常に情報過多な状態で、正確な判断や思考を求められても、オーバーヒートしてしまうのは仕方ないような気もします。

好奇心や、興味・関心、そこから得られる知識・体験は、時として人の心に充足感を与えてくれます。本来であれば、情報量が増えれば増えるほど、人の心も満ちていきそうなものなのに、そうでないどころか虚無感を感じる人さえ出て来てしまうのは何故なんでしょうか。

多分これって、人によりけりなんだと思うんですが、僕はやっぱり自分の目で見て体験したものしか、心底信頼できないからなのかもしれません。歴史の教科書は、「印象派」という言葉は教えてくれても、油絵の質感や色味、そしてそれを目前にしたときの高揚感までは教えてくれませんでした。教えてくれない、というよりそれは、教えることのできないものだった、というのが正確かもしれません。

「感動体験」は、五感が揃ってはじめて成立する第六感的な感情だと、僕は理解しています。その場にいるという確証を、五感をもって感じることによって生まれてくるものだと。

だからこそ、興味や知識はいまでも足で稼ぐもんだと僕は思っていて、スマホから得られるあらゆるものでは満たされない気持ちになるのかもしれません。

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