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多様性と日本型雇用の仲違いのワケを考えてみた
昨今、『多様性』という言葉が世間では至極当たり前になり、また、SDGs同様にさまざまな企業がステークホルダーに向けて「我々は多様性に寛容ですよ」とアピールするようになってきた。
これは数十年前の「多様性?なにそれ美味しいの?普通じゃない奴は落伍者」みたいな世間の空気からしてみればよっぽどよい変化を遂げたと言えるだろう。
正直、いまだにいわゆる「普通」の定義はあまり変化がないのではと思うが、そこからはみ出た部分に対しては一概に否定するのではなく、いったんは受け入れようとするなどだいぶ寛容になってきたのかなと思う。
むしろその「普通」を押し付けないかどうかがひとりの人間であれ企業であれ多様性に関するリトマス紙として機能しているだろう。
ここで私がいう多様性とは、「個々人がもつ、思想や行動において、法に触れないもの」を指していると解釈してもらいたい。
その上で、だ。
私は個人的には「多様性を認めない社会なんてありえないし、みんなが生きやすい社会であるべき。それを阻むのはおかしい。」と思っている。
思っているものの、正直大きな日系企業で働く中で個人の多様性ばっかり叫ばれるとたしかに組織としてはやりづらいんだろうな、というかアンマッチだなと思う場面にいくらでも遭遇した。
そこで今回、なぜ企業は多様性と仲良くできないんだろうか?ということをさまざまな観点から整理してみたいと思う。
今の世の中、どこからがパワハラ?
昨今、パワハラ防止法が施行されるなど、パワハラ、セクハラ、マタハラなど、さまざまなハラスメントに対して世間の目は厳しくなっている。
それ自体は労働者にとってとてもよいことだ。ようやく当たり前のことに気付いたのかとすら思う。
だがその一方で、世の中には「逆パワハラ」なるものが存在しているらしい。
(※部下が上司の指導に対して必要以上にパワハラだと主張するものだと筆者は理解している)
私はその言葉を聞いた瞬間、「こういう言葉が生まれる背景には日本型雇用で育ってきた世代とそうではない世代の大きな隔たりがあるんだろうな」と思ったのだ。
ここで、パワハラの定義を整理しておこう。
厚生労働省は、パワハラを「職場で働く者に対して、職務上の地位や人間関係などの職場内での優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与えるまたは職場環境を悪化させる行為」と定義してる。
私がこの定義で問題になる部分はおそらく「業務の適正な範囲を超えて、精神的(苦痛)」だと思う。
簡単に言えば被害者本人が業務の適正な範囲の内容じゃないと感じ、嫌だと思えばそれはパワハラに該当する、と解釈できるということだ。
この「業務の適正な範囲」が難しい。
あくまで個人の考えだが、日本型の終身雇用が当たり前だった世代においては、いわゆる業務において怒鳴る、強いプレッシャーをかける、感情的に怒る、などは、業務の適正な範囲だと思っていると思う。できないやつに教えてやってるんだこっちは!くらい思ってると思う。
一方で、今の若者からすれば、上記の内容に精神的苦痛を感じ、パワハラだと言う人もいるだろう。
これに対して「今ドキの若者は弱っちくて使えねえな〜」というのが日本型雇用世代の感想だろう。
あえて批判覚悟でいうが、数十年前であればその態度でいても企業は成り立っていただろう。
なぜならば労働人口はどんどん増えていたし、そうやって厳しい環境に耐えて結果を出せば基本的に誰でも給与が上がっていった時代だからだ。
だから厳しい環境でもメンタルの強い人は辞めなかったし、その中で結果を出してきた人もいた。
だからこそ使い捨てで良かったのだ。
大量に新卒を雇って、その中で厳しい労働環境でメキメキ成長する人だけが残ればいいというやり方が通用した。
そして企業にはそういう人が2割いれば、あとの8割の人間にはそこまで負荷の高くないルーティーン作業をやってもらえればそれなりに利益が出た。(いわゆる働きアリの法則)
でも現在はどうだろう。
労働人口は減少する一方だし、給与だってずっと横ばいだ。なのに税金も高い。
そして、デジタル機器が当たり前のように業務において使用され、「普通」の雇用者はパソコンが使えるレベルを求められるようになった。なんならWord、Excel、Power Pointが使えると言ってもいい。(その証拠に私は新卒で入ってからほとんどそれらの研修を受けないまま資料を作らされている)
そしてどんどんと事務作業はデジタル化し、人間に残った仕事はそれらのデジタル化された事務作業を使いこなしながら、新しいことを考えていくということなのだ。
個人的には数十年前の紙での整理の時代と比べ物にならないくらい企業における「普通」のハードルが上がってるんじゃないかと思う。
そう、私はここが今の時代だからこそ多様性が余計叫ばれてる理由なのではと思っている。
たとえば「発達障害」という言葉も、昨今ではよく聞くようになってきた。
聞くところによるとADHDの方はマルチタスクが苦手、などと言われている。
しかしデジタル化された今、マルチタスクじゃない仕事の方が珍しいだろう。
たとえば数十年前であれば、そういった人もコピーや資料の整理など、いくらでも任せられる業務はあっただろうし、「しょうがないやつだな」くらいで済んでいたんだと思う。
しかし先ほど述べたように、今の仕事はデジタル化していてマルチタスクが必須だし、PCスキルがない人間に任せられる仕事などほとんどない。
そんな人物がいたとして、上司はどんな仕事を任せていいかわからないのだ。もしくは自分に当たり前にできることができない(=努力していないように感じる)その人に対して次第に怒りすら感じるかもしれない。
当の本人は「なんでこんなこともできないんだろう…情けない。でもできない。」と悩む。そして精神的に辛くなって精神科などを受診した結果、発達障害であることがわかったりする。
こういったケースは決して珍しくない。
ここまでのことを整理すると、若者世代では以下の2つを前提とした社会を生きていることになる。
①労働における「普通」レベルの圧倒的上昇
②金銭的な外部要因の悪化(賃金の横ばい、国全体としての勢いの減少、税金の負荷の増加等)
つまり若者労働者は①のように高い業務レベルをどんどん求められるにもかかわらず、②給料や生活は変化がほぼないという状況に置かれている。
そして日本型雇用世代の上司は②の状況をほぼ改善することは難しいものの、①のレベルで働けるよう(なんならもっと難しいことを成し遂げられるように)若者を使えるようにしろと言われているのである。そして人手不足の昨今、辞めないようにしろとも人事部から言われているだろう。
この状態に置かれた上司は、ひいては企業も否が応でも「多様性」に向きわなければならなくなっているのが今だ。
しかし、今までのマッチョイズムな感性で運営してきた組織はそう簡単には変われないのである。
ザ体育会系の組織というのは批判されがちだが、実は組織としては統率がとりやすい。
炎上しそうな例えだが、たとえば中国のような組織を想像してもらえば、個々人の自由と統率のしやすさがトレードオフなことがわかりやすいかもしれない。
そして正直、個々人の思想や行動に全部合わせていく、というのは組織としては非現実的なのだ。(人数が少ない組織なら可能だと思うが、規模が数千〜とかになるとかなり厳しい)
企業は社員は公正公平な立場として扱わねばならず、特別扱いを出来るだけ避けようとする。
という側面もあるだろうが、もう一方での本音としては日本型雇用に合ってる(or耐えられる)からそこにいる社員からしてみれば「それくらい耐えればいいのに、メンタルが弱すぎる!(なぜなら自分が我慢できたから)」という生存者バイアスがあるんだと思う。
もう一度言おう、数十年前ならそのスタンスでなんら問題なかった。
だがしかしながら、今はその態度でいる限り、それらの発言が切り取られてメディアで非難される自体を生み出すだろうし、労働者を大切にしない働かせ方をしていては人は集まらない。
理想論を言えば、いまある仕事にやりがいを見出してもらって業務に一生懸命食らい付いてほしいんだと思う。だがそこが難しい以上は、社員の多様性を大切にする会社である、ということを目指していくのが今の時代の企業の正しい在り方なんだと思う。
しかし、こういった背景から生まれる「多様性を大切にしてますよ」という企業のスタンスは、どこかずる賢く上から目線で、建前であることが隠せなくなる瞬間が生まれるからこそ、日本雇用型の企業に対しての不信感は拭えないんだと思う。
でもあえて言おう、人間の中身を変えるのは難しい。だからこそ制度から変えていこう。
そのための自分の個性の主張は決してムダじゃない。そんな社会も近いと思っている。
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