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フィヒテの哲学をざっくり解説

フィヒテ(1762-1814)はドイツ観念論を代表する哲学者。

カント哲学を継承し、シェリングやヘーゲルに大きな影響を与えたことで重要な役割をはたします。ちなみにルドルフ・シュタイナーのような人にも影響を与えています。

日本では「ドイツ国民に告ぐ」の人として有名かも。しかし彼の本領は、後期にピークを迎える深遠な形而上学にあります。

以下、フィヒテの思想を前期と後期にわけてわかりやすくざっくりと解説します。


フィヒテの生涯

フィヒテが生まれたのは1762年のドイツ。

幼い頃から神童として有名だったようです。教会の説教を聞いただけでそれをすべて暗記し、牧師の代わりに説教を行うことができたとか。

若い頃からフィヒテは啓蒙思想や自由主義に傾倒していました。しかしそれと同時にスピノザ的な宿命論をもっていた模様。

この宿命論からフィヒテを解き放ったのがカントでした。カントの『実践理性批判』を読んだフィヒテは思想的革命を経験します。

家庭教師として働いていたフィヒテはカントを訪問することを決意。そのさいに書き下ろした論文が『一切の啓示の批判の試み』というやつ。これを読んだカントはフィヒテの才能を認めます。

フィヒテはこれを匿名で発表したのですが、そのクオリティゆえ、世間は著者がカントなのではないかと推量します。これに対してカントは「いやあれは私が書いたものではなく、ある有望な若者が書いたものですよ」とコメント。そのおかげでフィヒテは一挙に名声を手にしたのでした。


カントと同様にフィヒテに大きな影響を与えたのがフランス革命でした。

フィヒテは隣国の動きに突き動かされ、筋金入りのリベラリストになります。とくに教育を重視。この教育重視の姿勢は晩年まで一貫しています。教育における女性の地位を男性と対等にすべきだといった主張も早くからしていました。

有名な「無神論論争」では、神を人格的な実体と見なすことに反対し、イエナ大学を追放されます。

しかしフィヒテが単なる唯物的な啓蒙主義者だったのかというとそうではなく、むしろ深い宗教的世界観と哲学が結びつき、そこから時代や社会を把握するスタイルが特徴です。これはのちのヘーゲルに影響を与えます。


晩年のフィヒテにとっては、ナポレオンの侵略に対してドイツを立ち上がらせることがテーマになります。

1800年まではフランス革命に憧れ、遅れたドイツの社会状況を批判するのが仕事でした。

しかしナポレオンのドイツ制圧によってフェーズが移行します。これ以降はむしろ、ドイツの近代化と統一、そしてフランスからの解放、これらが一大テーマになっていくのです。

この文脈で行われた連続講演こそがあの「ドイツ国民に告ぐ」なわけです。これはドイツにおけるナショナリズム勃興、ヨーロッパにおける国民国家成立の流れを後押ししました。

プロイセン国王はドイツ再建を図り、その一環としてベルリン大学を創設。新国家のためのリーダー養成がこの大学の役割です。フィヒテは哲学部長として赴任。そして選挙の結果、初代学長に選ばれます。

フィヒテはプロイセンの解放戦争に従軍を申し出るも丁重に断られます。看護師として働いていた夫人がチフスに感染。これを看病したフィヒテ自身にも病気が感染。プロイセンの勝利の報を聞きつつ、1814年にフィヒテは地上を去ります。

フィヒテ夫妻の墓のとなりにはヘーゲル夫妻の墓があります。これは生前のヘーゲル本人の要望によるものでした。


フィヒテの前期哲学

フィヒテはカント哲学を批判的に継承することで自身の体系を作り上げていきました。

とくにフィヒテが目をつけたのが理論理性と実践理性の関係性です。この二つの能力の関係ってどうなってるのでしょうか?

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