社会が私を「女」にする

長い間、男女平等の在り方に違和感があった。

日本は先進国の中でも男女平等が進まない国として有名だと何度も聞かされてきたが、

主に取り上げられるのは家事育児が女性ばかりに押し付けられること、女性の賃金や学歴が男性に比べて低いことなどだった。

たしかにそれが事実としてあるのはわかっている。ただ、どこかもやっとしている自分もいた。

私は女性の立場だが、世の中の男性が「女性専用車両しかないのはおかしい」と声を挙げる気持ちもわかるからだ。最近では、あまりにも過激に女尊男卑的指向を持った女性を、主にtwitterで多く見かけるからだ。彼女たちは侮蔑的な意味を込めて「ツイフェミ」などと呼ばれている。女性としてもそうしたアカウントのツイートを見るのは気持ちの良いものではない。

しかしだからといって、そうした「ツイフェミ」に対して誹謗中傷する男性の肩を持ちたいわけではない。フェミニスト全員が支離滅裂なことを言っているように見なすことも、結局は男性全員を批判するツイフェミと何ら変わりないからだ。

互いに相手をラベリングして、受け入れられない思考を型に当てはめ、果てのない批判の応酬を繰り返す様子は見ていて気持ちのいいものではない。男女平等社会は、どちらを優先させるものでもない。性別に関係なく、相手を人間として平等に尊重できる社会のことのはずだ。

そして今日、このバズりツイートを見たことで、感じていたもやもやの理由がわかった気がした。

彼はどちらかというとフェミニスト批判者であることがツイートの内容から読み取れるが、そこは問題ではない。

添付された画像には、ジェンダー平等を求めてオランダに移住した女性が、むしろ自分がジェンダーバイアスの中に囚われていたことを知り、「平等」を都合よく解釈していたと気づくという内容が書かれていた。

私はこの内容を読んで、自分が望んでいた男女平等とはまさにこの記事で述べられるオランダにあるようなものだ、と感じた。

日本では、重い荷物を持つのもお金を多く払うのも、体力があり稼ぎが相対的にいい男性だ。しかし、これまで6年間女子校で育ってきた私にとって、大学に入学してから感じたこのジェンダーギャップは違和感でしかなかった。自分で持てる荷物は責任もって持つし、払えるお金は払う。別に、私は普通じゃないのと自慢しているわけではない。

男だろうが女だろうが、自分でできる範囲の事を試して、それでも人の力を借りる必要があると判断した時に頼るのが、相手へのマナーだと思って暮らしてきた。特に女子校だと、重い荷物を運ぶのも割り勘で端数を多く払うのも全て女子がやる。こうした、人がいやがる仕事を積極的に請ける態度は「男らしい」と形容されるが、この言葉にも違和感がある。

嫌がる作業を進んでやるのは男の仕事なのか。それは「男らしい」から称賛されるのか。褒められているはずなのに、嬉しくないのはなんでだろう、と思う。

と、ここまでエラそうなことを書いたが、実は矛盾した行動もとっている。

大学入学したての頃、初めての男女共学に浮かれ、お世辞だろうとちやほやされるのに舞い上がっていた私は、女性であることをフル活用していた。

女子校時代にさんざん読んだ恋愛コラムで、(JKはみんな読んだことあるよね)「モテる女は甘え上手」などとしょっちゅう書いていたからだ。

今思うと本当にしょうもないと思うけども、それを真に受けた当時の私は、調子に乗って女の武器を使いまくっていた。実際、多少わがままを言っても聞いてもらえ、それによってかなり増長していた。まあ一女だったから許されたところも大きいが。

そうした振る舞いをすることで、周囲にも、恋愛が大好きな人たちが集まってきた。女子校時代も恋愛好きな友達は多かったが、大きな違いは経験値だった。共学での青春を通じて恋愛経験が豊富で、高校からいままでの人生で恋人がいなかった時間の方が少ない友人は、もはや異星人のような存在だった。

それでも、その時は私も彼女らと同じだと思っていたし、すぐに彼女らのようになれると思っていた。ずっと憧れていた恋愛こそが、自分の人生を最も豊かにしてくれると信じていた。

しかし、初めての彼氏ができたころ、当たり前のように「女」「彼女」「守られる側」の立場にいる自分に強烈な違和感を覚え、気持ち悪ささえ感じていることに気が付いた。

人と人として向き合いたいと心の底では思う一方で、女性という役割と、振る舞いから抜けられない。女友達とのコミュニケーションと何が違うのだろう。そんな息苦しさを抱えていたので、分かれた時は正直肩の荷が下りた思いだった。

うちの両親が、直接私に女らしいふるまいを求めたことはない。ただ、男ならされないであろう注意をされることはあった。

また、私はヒッチハイクをしたり詐欺師のおじさんと話したり、ちょっとした冒険をすることをするのが好きなのだが、そうした報告をすると決まって「危ないからもうやらないで」と言われたり、「え~...すごいね...」と、ドン引きされる。そんな時に、男だったらもっと生きやすかったかなあ、と思ったりもした。

しかし、こうした違和感を持っているのはきっと私だけではないはずだ。男が奢る文化に嫌気がさしつつ、仕方なくお金を出している男性は少なくないだろうし、女のなのに料理ができないの、なんて言われて嫌な思いをした女性もいるだろう。

身体の大きさなど、事実としてある性差は仕方がないし、それによって区別されることに不満はない。ただ、ステレオタイプによって固定された男女観がなくなって、誰もが相手の価値を「男だから」「女だから」で測らなくなったらどんなに生きやすいだろうか、とたまに思う。しかし、そんな社会を実現するには、制度として存在する男女の区分けを意識してなくしていくしかないだろう。

友人は、「欧米では強い女がモテるのに日本はその逆だ」と言っていた。それは、ジェンダーについての固定化した社会の見方が、我々の振る舞いを無意識に制限しているからではないか。

一方で、私が小学生だったころから10年近く経ち、小学生のベビーシッターをしたり、小学生向けのコンテンツを観察する中で、随分時代が変わったなあとも思う。私の時代は、ピンクの服を着てきただけで男の子はからかわれていたが、今では可愛いもの好きの男の子もたくさんいる。

個人のアイデンティティーを性別に求めないような教育が、徐々に成功しているのも事実だ。これから、そうした価値観が当たり前の世代が大きくなって、社会が変わっていったら嬉しく思う。

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