大学二年生が終わりかけ、就活について思うこと

20歳大学生の思ったことの覚え書き。

過激なことも書いているが、あくまで個人の一意見として。

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最近、友人と会って頻繁に「就活」というワードが話題に上がるようになった。

「就活してる?」「就活どうする?」「インターンとかしてる?」…

人生に関わる、誰もが避けて通れないワード「就活」。

しかしその実態は何なのか、平均21歳で行う就活とは今後40年の労働人生にどのような意味を与えるのか、一体何が正しいのか、いろんな人に聞けば聞くほどわからなくなってくる。

ということで、就活についての人々の意見にむむっとなったので言語化していく。

皆のインターンへの憧れに違和感

就活と関連して出てくるワード一位が「インターン」、二位が「病む」であった。(私調べ)

まずインターンについて。

私は長期インターンをしているが、別に就活のためではない。私にとってインターンは、あくまで役立つ知識が手に入るバイトのような認識だ

しかし、同い年に長期インターンしていることを話すと、「インターン」は実体のない、まやかしのようなイメージをひしひし感じる。ちょうど西野〇廣みたいな感じ。ただ、即物的なイメージが先行してる。

そして、インターンをしていることに対し99%言われるのが、「私もインターンしなきゃかなあ」という言葉。

でも、個人的には違和感を感じる。インターンは自分がやりたいと思ったことを実現する手段として勉強するだけの立場で、その分野を勉強したくない人は無理にやらなくていいと思う。

別にインターン生なんて末端の末端の末端もいるんだから(自分の事です)インターンしていることがそんなにえらい訳じゃない。私からすれば同じバイトをバイタリティを持って4年も続けられる方がすごい。

しかし、私が以前参加した「企業とインターン生のマッチングイベント」では、学生の9割が形から入りたい人だった。肩書を手に入れたい、よくわからないけど何か使命が欲しい、頑張っていてしかも将来的に価値を生み出せる事柄が欲しいという人で溢れていた。

企業から見たら「なんか求めてる学生と違うんだよな」って感じるだろうなというイベントだった。実際、企業側は理系を求めているのに対して学生側の文系の割合が圧倒的だった。

また話は逸れるが、前何かの本で人には「to do」で動く人間と「to be」で動く人間がいると聞いたことがある。

to do人間は、「会社を大きくしたい」「貧困をなくしたい」といった行動を目標・夢として動くが、

to be人間は、「こんな人になりたい」ということを目標・夢として動くという。

別にどちらが優れているというわけではなくそれぞれデメリットはある。

ただ、人間の90%はto be型なのだという。

この話を思い出して、就活に臨む人々はみな自分がto be人間であることに直面するのだとわかった。そもそも、to do人間なら何がしたいのかわからない、と言う前に行動しているのだろう。

to be人間は理想的な自分になるため大学生活を満喫したものの、いざそれを就職に結びつけようとすると、思い描いていた就職にはなりそうもないという現実に直面する。そして、手早く社会人におけるto beを実現できそうな何かを、自分が誇れる何かをやりたいと思う。

「インターンやるべき?」という一言に、みんなの生きづらさが凝縮されて瓶詰めされている。

就活関連ワード第二位「病み」

続いて、病んだという声を主に先輩方から多く聞くことについて考察したい。

その多くに、よくある学生運営の就活セミナーが原因としてあった。

初対面のOBOGや先輩から、自己分析、ガクチカのための実績の数値化などを教えてもらうという。

最近youtubeで見た、「就活でありがちな嘘」という動画で、「バイト先の売り上げを20%あげた」があると挙げられていたが、これは就活のための悲しい数値化の極端な例だと言える。本当はバイトで数値で語れない苦い思いや一瞬の喜びを味わったはずだが、それらは全て20%という言葉に収束するしかなかった。

話を戻して、病んだ先輩が言っていた言葉で印象的だったのが

「『で、それって数値にできるの?そこから何を得たの?』って言われて、いやそんな私の活動なんて数値にするためにしてきたわけじゃないし、自分のすべてが就活に紐づけられるのが嫌だ」

という想いだ。

いやそんなことほんとに言う人がいるのか、とびっくりした。それが世間一般なのだろうか。

周りが知っているその先輩のクリエイティブさもエネルギッシュさも、数値にして可視化できなければ全て就活の前では無意味なのだ。我々は他人に自分の長所を説明するために大学生活を送らねばならないのか。先輩は、留学した友人と電話で話してて「変わったよね」と言われたのがかなりショックだったそうだ。

大学1年に自己分析セミナーに参加した話

ところで、私も1年生の時自分探しに迷走していて就職セミナーに参加したことがある。いや、完全に場違いだった。あの経験があったから、多分あれが就活で直面する苦しさ、病みなのだろうと想像できる。

そこでは一流大学を辞めてまちおこし隊に入って起業した人とか、新進気鋭のベンチャー社長とか、コーチングのプロとかが一対一で話を聞いてくれた。

1年の世間知らずが何となく何かを求めていくのは完全に場違いだったし苦い思い出になってる。

そして思い出深いのが、最後の参加者交流会の時、「で、君は何やってるの?」と聞いてきて、全てに「ふ~ん」と答えた当時3年のダンスサークルのアパレルブランドと称してインスタでパーカを売ってる先輩だ。

ともあれ黒歴史すぎるが、その時感じたことを就活が身近に迫った今だからこそ、あえて掘り起こしてみたい。

流れとしてはまず、「自分がどうなりたいか?何を手に入れたいか?」というシートを時間制限ありで記入させられた。そのパートは幸福度グラフとか、自分史年表とか、自分が実現したい状況のルートマップとか、今思うと自己分析全部盛りセットであった。

時間が終了し、それぞれの書いたものをチーム内で発表するパートに移った。各グループのメンターが司会進行をし、メンター含め5人が一人ずつ発表していく。当然ながら皆2年生以上だし、院生もいて、既に自己分析は作りこまれていた。

しかし就活の作法など何も知らない私は、「やりたいこと」の欄に高校のキャリア教育授業よろしく「2年生で留学、海外で働く、中国語を極める、TOEFLのスコア○○点とる」とを書いていた。すると、それまで他の人の意見を肯定しかしてこなかったメンターが

「う~ん、もっとこう、自分の内面を掘り下げて考えてほしい。例えば、海外で働きたいのはなぜ?それで実現したいことは何?」

みたいなことを言った。正直、え?と思った。いや、海外に憧れがあるし外国の人と沢山話したいから海外で働きたいの。そんな掘り下げる必要ある?というか、そんな自分の奥深くを人前に晒す必要あるのか?自己開示したくないからあえて表面的なこと書いたんだけど。今思うと本当に、一人だけ目的がかみ合わないまま参加した自分が悪いのだけれど。

ちなみに、メンターが以前、このイベントの泊まりバージョンで掘り下げた結果産み出した実現したいことは「周りを笑顔にすること」だった。

そこで、やっと正解を理解したその後、回答に細心の注意を払った。つまり、かれらが参加者に求めていることは「物質ではなく精神から来る欲求を言語化し、直視すること」で、そこではなるべく自分の本質と向き合ったことをアピールすることが求められる。

社会人とのマンツーマンセッションが終わった後、再び「実現したいこと」を作り直し発表しあうのだが、

「私はずっと目に見えるものを実現したいことと思っていたけど、もっと精神的な本質が大事なんだと気づくことができました」

みたいなことを答えた。その発表後のグループメンバーの優しそうな顔と深いうなずきといったら。宗教じゃないの?

振り返れば、マンツーマンセッションは場違いな一年生にも優しく接してくれたし、苦い思い出も糧になっているはずだから参加して良かったと思う。

しかしとにかく、あの自己開示の押し付け的な雰囲気が苦手な人だなあと感じた。就活で苦しさを感じている人は、私があの時感じたことを今感じているのかもしれない。

あくまで私は自由です!と主張するが実態としては四角い型に当てはめられて苦しさを感じるうちに、それが当たり前だと思うように変化していくのではないか。だからこそまともさを保っているとき、型に当てはめられるという変化の過程で病むのだろう。

ちなみに、私がここまで就活に冷めているのには理由がある。大学の推薦入試対策に一年間、自己分析系の講座をとっていたからだ。そこで自分史年表というものを初めて書いて、試験官にうけそうな研究テーマを「発見」して、自分の過去の経験と結び付けるという作業を行った。楽しかったが、大学に入ってからはほとんどそこで作った目標なんて忘れていた。きっと就活も、大半の人はそうなるだろうと思っている。

一方で、インターン先での就活カルチャー

しかし、インターン先での就活カルチャーは別の意味で偏っていて、大学のそれと両極だなあと感じる。

そこは少数精鋭だが、みな将来は普通に就活するつもりはなく、休学しながらインターンを掛け持ちしたり、日本各地を旅をしたり、起業のために勉強している人がいる。

そして、そのうちの一人、教育系ベンチャーに関心のある人が「最近就活してる友人と話して、大企業に就職したとか月これだけ稼いでるとか自慢されるけど、全然すごいと思わなくなった。目先のお金より自分のやりたいことに投資するのが大事」と言っていた。また、経営系の大学に通っている他の一人は、「最近大学の友達に、大学のこの仕事(インターンのスキルが生かせる仕事)手伝ってって言われたけど、それ試案はあるんですか?って返したったぜいえい」みたいなことをつぶやいていたりといったコミュニティだ。

こうして見ると、一般的な就職という流れにに逆らって休学したり大学中退したり起業する人も一種の流派と言えるのではないか。金持ち父さん貧乏父さんみたいな世界。

ちなみに話はまた逸れるが、先日、どうしてもやる気の起きない日に気分転換として、喫茶店に本を読みに行った。

そこに私が注文した直後に男女が入ってきた。閉店の二時間前だったので客もそこまで多くなく、彼らの会話は注意しなくても聞き取れた。そして、その会話が非常に良かった。

まず二人は、お互いの部活について軽く話した。同じ部活の女子部と男子部なのだろうということが察せた。そして、自然に就活の話になった。ふたりとも三年生で、就活が終わりかけていた。

その中で、ふと、女の子がベンチャー企業の話題を振った。ベンチャーのほうがアットホームで話しやすいよね、わかるわ、といった会話だった。そこからどう話転んだかはわからなかったが、突然男の子の方が自分が面接した(もしくは内定したのかもしれない)ベンチャーについて熱く語りだした。

話によると、その会社は「とにかくこのままじゃだめだと思っている熱い人たち」が集まったベンチャーらしい。そして、彼自身もかつては教員志望だったが、「このままじゃだめだ」と思いそのヴィジョンに共感したという。女の子はその話を、終始真剣に聞いていた。

私は、「このままじゃだめだ」という無責任な言葉がとても気に入った。ちらっと二人を見ると、青年はとても真っすぐな目をしていた。私は、大学生が上京して青春を過ごす映画『横道世之介』を思い出した。この映画はどんな人でも大学生時代の恥ずかしい思い出を掘り返されるようで、私の両親ももやもやしながら見たそうだ。彼はこの映画に出てきそうだなあ、とぼんやり思った。

今まで正直こうした意識高い人達の思考回路がわからなかったけど、感化され始めた人を客観的に見ることによって、また実際にベンチャーで働いている人と触れ合うことで、何となく理解できたような気がした。全ては若者のエナジーなのだ。

得体の知れない生きづらさ

こうして改めて文字に起こしてみると、何だかんだみな向いている方向は同じな気がする。

自分の子供はもっと良い時代に生きてほしいという想いは共通だし、自分が快さを感じる方向を探りながら生きている。

では私はどうなのか。こんなに批判的に見ているにもかかわらず、自分の事は一番よくわからないし、まだ結論を出したくない。

義務教育の中で成長する過程で、自分なりの工夫が大人に注意されることが多々あった。やはり多様性を認めようと努力する人が一人でも多いことは大事だなと思う。

今言えるのは、就活だとか企業だとか関係なく、自分らしく生きていきたいということだけ。

また、私だけでなく、四角四面の常識に慣れすぎて感覚がマヒしていた様々な人たちが、コロナ禍を通じて常識への違和感に敏感になり始めた。皆、より自分の個性を生かせる形での生き方を模索し始めているような風潮を感じる。

とにかく、自分の好きなように生きたら上手くいくのだと信じたい。これが私が、就活に関して言える思い。





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