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小学生の夏休みを超えられない

毎年、夏の終わりに、ふと思うことがある。

「小学生の頃の夏休みが、人生でいちばんの夏休みだったんじゃないか」って。

不便だけど自由だった人との繋がり

そう思う理由のひとつに、「対面でしか人と繋がれなかった不便さ」がある。

私が小学生の頃、世の中にスマートフォンなんてものはなかった。SNSも携帯ゲームも、当然ながら普及していない。

あくまでも連絡手段でしかなかった携帯電話は、そもそも子供の持ち物ですらなく、周りが携帯を持ちはじめたのも、小学6年生に入ってからだった。私もそのひとりだ。

だから、小学生のほとんどは、人との繋がりを対面のみで過ごした。

学校で会って、放課後遊んで、家に帰る。家に帰ってからは、友達と連絡をとる手段も、友達の動向を追う方法もない。

だから夏休みも、友達を遊びに誘いたいとなれば、相手の家のインターホンを鳴らしにいくか、連絡網の番号を頼りに自宅に電話をかけるかしかなかった。相手の親が出て「〇〇ちゃんいますか?」と伝えるとき、かなり緊張したのを今でも覚えている。

当時から、気軽に相手と連絡をとれないことに、不便さは感じていた。でもそれ以上に「友達から既読がつかない」と悩むこともなければ、遊びに誘われていないことをSNS伝いに知ることもなかったあの頃は、とにかく心が自由だったように思う。

家でアイスを食べながら、テレビを見てゴロゴロしていると、「れなちゃーん!遊ぼーー!」と友達の呼ぶ声がする。嬉しくて、2階の窓を開けて「いいよー!」と大きな声で返す。

そんな人との繋がり方は、意外と快適だったのかもしれないと、便利な世の中になった今になって思う。

経験がないからすべてが新鮮に見えた

もうひとつ、「何をしても新鮮な気持ちでいっぱいだった」という理由もある。

私の地元には、商業施設がない。あるのはスーパーと、コンビニ、そしておばあちゃんが営む駄菓子屋のみ。家の裏には川が流れていて、少し歩けば田畑が広がるような、ちょっぴり田舎な住宅街に、小学生の私は住んでいた。

だから、夏休みの遊びといっても、プリクラを撮るとか、買い物をするとか、そんな都会的な遊び方はできない。

代わりに、川でザリガニを釣るとか、川沿いを自転車で走るとか、駄菓子を買って公園でひたすら喋るとか、そんなことばかりしていた。

それでも、小学生だった頃の夏休みは、毎日がとにかく充実していた。

今日は、見たことのない大きさのザリガニが釣れたとか、初めて自転車で遠くまで行ったとか、友達のおすすめの駄菓子が美味しかったとか。

ちょっとしたことすべてが新鮮で、家に帰るとその日起こった出来事をずっと親に話していた。毎日がキラキラしていて、明日は何が起こるのかとにかく楽しみだった。

歳を重ねた今、もし同じような体験をしても、あの頃の喜びは感じられないだろう。

社会人になってお金持ちではなくとも、ある程度自由に使えるお金ができた。一緒に過ごしてくれる友達も恋人もできた。お気に入りの飲み屋やカフェもできた。

あの頃よりも持っているものは多いはずなのに、毎年夏が来ても、あの夏休みを上回る自由やワクワクはまだ感じられていない。

もし叶うなら、ちょっぴり不自由なあの頃に戻ってみたい。あわよくば、これまでの記憶を全て消して、すべてを新鮮な目で楽しんでみたい。

そんなことを、季節外れである寒い冬を目の前に、ふと思う。来年の夏休みは、いったいどんな夏になるだろうか。

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