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【知ってはいけない中国共産党の外国人】イスラエル・エプスタイン

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今回はイスラエル・エプスタインの英語版Wikipediaの翻訳をします。翻訳のプロではありませんので、誤訳などがあるかもしれませんが、大目に見てください。翻訳はDeepLやGoogle翻訳などを活用しています。

学問・思想・宗教などについて触れていても、私自身がそれらを正しいと考えているわけではありません。

イスラエル・エプスタイン

イスラエル・エプスタイン(Israel Epstein、1915年4月20日 - 2005年5月26日)は、ポーランド生まれの中国人ジャーナリスト、作家である。中国以外の外国生まれの中国人で、中国共産党の党員となった数少ない人物の一人である。

イスラエル・エプスタイン(1942年)

幼少期の生活と教育

イスラエル・エプスタインは、1915年4月20日、ワルシャワでユダヤ人の両親のもとに生まれた(当時のワルシャワは帝政ロシアの支配下にあった)。父親は労働者蜂起を主導したため帝政ロシア当局に投獄され、母親はシベリアに流刑されていた。第一次世界大戦が始まると、父は会社から日本に送られ、ドイツ軍がワルシャワに迫ると、母とエプスタインは逃げ出し、アジアで父と合流した。一家はいくつかの場所でユダヤ人排斥感情を経験し、1917年、エプスタインは2歳の時に両親とともに中国に渡り、1920年に天津に定住した。エプスタインはそこで育てられた。

経歴

イスラエル・エプスタインは、15歳でジャーナリズムの世界に入り、天津の英字新聞「北京・天津時報」に寄稿した。また、日本軍の中国侵略をユナイテッド・プレスなどの欧米の通信社に伝えた。1938年秋、孫文の未亡人、宋慶齢が設立した中国防衛同盟(訳注:のちに中国福利会)に参加し、中国の大義を宣伝し国際的な支持を得ることを目的とした。1941年には、孫文の死を偽装して、孫文を逮捕しようとする日本軍をおとりにした。この誤報は、『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載された短い記事にもなっている。

宋慶齢によって創設されたNGO組織、中国福利会
イスラエル・エプスタイン(1936/1937)延安(当時は中華ソヴィエト共和国の首都)

エドガー・スノーの本の書評を担当することになったエプスタインはスノーと個人的に知り合うようになり、スノーは彼の代表作『中国の赤い星』を出版前にエプスタインに見せた。スノーの進歩主義に深い影響を受けた彼は、中国の民主化運動に関わり、スノーの雑誌『デモクラシー』の編集者となった。

エドガー・スノー(左)と周恩来夫妻
エドガー・スノー『中国の赤い星』

1934年、エプスタインはエディス・ビホフスキー・エプスタイン(後にバリン)と結婚したが、1940年代初頭に離婚した。1944年、エプスタインは初めてイギリスを訪れ、その後、2番目の妻エルシー・フェアファックス=チョルメリーとともに5年間アメリカに住んだ。

1944年、毛沢東(右上)とともに延安を訪れたエプスタイン(前列右2人目)

大日本帝国の強制収容所から脱走した後、「連合労働新聞社」に就職し、編集長になった。1947年、『未完の中国革命』を出版。この本は、ニューヨーク・タイムズ紙で、ジョンズ・ホプキンス大学のオーウェン・ラティモアによって熱烈に評価された。1951年、共産主義の離反者エリザベス・ベントレーは、アメリカ上院の内部安全保障小委員会で、「イスラエル・エプスタインは、中国で長年にわたりロシアの秘密警察に所属していた」と証言している。

太平洋問題調査会の中心メンバーでもあったオーウェン・ラティモア
アメリカ共産党のメンバーでソ連のスパイ、エリザベス・ベントレー
のちにソ連と決別しFBIに内情を暴露した

その後、彼の妻であるフェアファックス=チョルメリーは、中国で出版された最も広く使われている中英辞典の寄稿者として、中国や世界中の中国語を学ぶ世代の人たちに知られるようになった。1984年にフェアファックス=チョルメリーが亡くなった後、エプスタインは3番目の妻である黄浣碧と結婚した。

1951年、宋慶齢の招きで中国に戻り、雑誌『中国建設』(後に『今日中国』と改題)を編集することになった。その後、70歳で退職するまで『今日中国』の編集長を務め、名誉編集長に留任した。『今日中国』在任中の1957年に中国国籍を取得し、1964年には中国共産党の党員となった。1955年、1965年、1976年にチベットを訪問し、1983年にはこの3回の訪問をもとに『変貌するチベット』という本を出版した。

投獄

エプスタインは、大日本帝国と中華人民共和国によって、二度にわたって投獄された。

1941年、真珠湾攻撃の後、日本帝国当局によって強制収容所に入れられた。その後、他の囚人たちとともに脱走。

文化大革命の際、周恩来に対する謀略の罪で1968年に北京北部の秦城刑務所に収監され、独房監禁を受けた。1973年、釈放され、周は謝罪した。彼の特権は回復された。5年間の禁固刑にもかかわらず、死ぬまで共産主義の理想に忠実であり続けた。1983年、イスラエル・エプスタインが中国人民政治協商会議の諮問機関である全国委員会の常務委員に選出される。

栄誉

イスラエル・エプスタインは、生前、中国の周恩来毛沢東鄧小平江沢民胡錦濤の各政治指導者から栄誉を称えられた。2005年6月3日午前9時30分、北京市石景山区にある八宝山革命家墓地にて、彼の葬儀が執り行われた。葬儀には、胡錦濤国家主席、温家宝首相、賈慶林、李長春の両政治局常務委員をはじめ、多くの関係者が参列した。葬儀後、遺体は火葬された。

出版された作品

『人民の戦争:中国での戦争から漢口陥落までの記録』V・ゴランツ、1939年
『私は延安を訪ねる:中国北西部の共産主義者主導の解放区の目撃談』人民出版社 [ボンベイ]、1945
『中国国民党の労働問題ノート』ガーランド出版, 1980
『中国見聞録:ユダヤ人とジャーナリストの回想録』ロングリバープレス、 2005
『歴史は忘れてはならない』五洲传播出版社、2005

英語版初出

『未完の中国革命』リトル・ブラウン・アンド・カンパニー、1947

中国語で出版され、英語に翻訳されたもの

『アヘン戦争から解放へ』新世界出版社(北京、1956)
変貌するチベット』新世界出版社(北京、1983)
『世界史の中の女性:宋慶齢』新世界出版社(北京、1993)

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