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【CIA初代東京支局長】ポール・ブルーム

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今回はwikipedia英語版「ポール・ブルーム」の記事を翻訳をします。

翻訳は主にChatGPT、補完的にDeepLGoogle翻訳などを活用しています。翻訳のプロではありませんので、誤訳などを上手く訂正できていないと思います。

英語をはじめとする外国語には一般の日本人が全く知らない情報が数多くあります。「海外の常識を日本人の常識に」を使命に、特に歴史的流れを掴めるようにすることを第一優先課題としています。

また、当サイトで掲載されている翻訳記事は私自身の見解や意見を代表するものではありません


ポール・ブルーム

ポール・チャールズ・ブルーム(1898年3月31日 - 1981年8月16日)は、アメリカの情報将校、実業家、作家、翻訳者でした。彼は戦略情報局(OSS)およびその後継機関である中央情報局(CIA)に勤務しました。

中央情報局東京支局長ポール・ブルーム(ユダヤ人)

生い立ちと教育

ポール・チャールズ・ブルームは1898年3月31日、日本の横浜山手外国人居留地で生まれました。父のアンリ・ブルームはフランスのアルザス地方出身のフランス系ユダヤ人で、レオン・ブラム元首相とは遠い親戚関係にありました。母のローズ・ブルーム(旧姓アイザックス)はアメリカのユダヤ系でした。ブルームは横浜で幼少期を過ごし、セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジを卒業した後、1912年にフランスに戻りました。ジュネーブで高校に通った後、イェール大学を卒業しました。ブルームはフランス語を流暢に話すことができました。

フランスの首相レオン・ブラム(ユダヤ人)

第一次世界大戦にアメリカが参戦した際、ブルームはアメリカ陸軍救急部隊に入隊しました。彼はクロワ・ド・ゲール勲章を受章しました。戦後、ブルームはパリに住み、ジャン・コクトーアーネスト・ヘミングウェイと関係があったとされています。1927年、ブルームはアンドレ=フェルディナン・エロルドによる『古代インドの伝説に基づく仏陀の生涯』をフランス語から英語に翻訳しました。1940年、ナチス・ドイツがフランスに侵攻すると、ブルームはニューヨークに移住しました。彼はコロンビア大学に入学し、日本語を学びました。横浜で育ったものの、当時の日本生まれの西洋人は日本語を理解している人がほとんどおらず、ブルームも例外ではありませんでした。コロンビア大学で、ブルームは仲間の学生ドナルド・キーンと親しくなりました。1941年の夏、ブルームとキーンは他の者と共に、ノースカロライナの山中の家で日本語の個人指導を受けました。この時期、ブルームは異なる国々での生活経験についてキーンに話しました。また、フランス文学を学んでいたキーンに対し、フランス語を学ぶ者よりも日本語を学ぶ者の数が少ないため、日本語の学習を勧めました。

フランスの詩人・小説家ジャン・コクトー
アメリカの小説家アーネスト・ヘミングウェイ
アメリカ出身の日本学者ドナルド・キーン

経歴

太平洋戦争勃発時、ブルームは戦略情報局(OSS)に入局しました。タイやポルトガルでの勤務の後、1944年10月にスイスのベルンにあるOSS事務所に配属されました。1947年春まで勤務し、アレン・ダレスの部下として情報活動に従事しました。第二次世界大戦終結間近の1945年、ブルームはベルリンの旧日本海軍武官であった藤村義朗による平和構想に関与しました。

第5代CIA長官アレン・ダレス
日本海軍軍人・実業家の藤村義朗

また、ブルームは「サンライズ作戦」にも参加しました。これは1945年3月にスイスで行われた、ナチス・ドイツ親衛隊とアレン・ダレス率いる戦略情報局の間の秘密交渉シリーズでした。ダレスの指示により、ブルームは親衛隊将軍カール・ヴォルフの使節団との降伏交渉を開始する任務を負いました。1945年3月3日、ブルームはスイスのルガーノでガイド・ジマー、ルイジ・パリッリ、オイゲン・ドルマンと会談しました。この会談が、3月8日のヴォルフとダレスのルツェルン会談(※ルツェルンはスイス中部の町)の舞台を設定しました。

親衛隊将軍カール・ヴォルフ
ドイツの外交官・親衛隊オイゲン・ドルマン

1948年、ブルームはアメリカ大使館の駐日公使として日本に赴任し、GHQ(連合国軍総司令部)外務省の三井本館で働きました。外交官としての姿を装っていましたが、実際には中央情報局(CIA)日本支局の初代局長として活動していました。この事実は当時秘密にされていました。

日本に到着後、ブルームは第二次世界大戦中の朝日新聞の欧州特派員で後に編集長となった笠信太郎と連絡を取りました。また、ベルリンの旧日本海軍武官である藤村義朗とも連絡を取り、東京都港区南青山にあるトレーディングカンパニーであるジュピターコーポレーションを設立しました。ブルームはジュピターコーポレーションの建物の2階と3階に住んでおり、藤村と共に生活していました。

朝日新聞編集長の笠信太郎

約1948年から、ブルームは東京の帝国ホテルで日本の著名な人物や知識人との円卓会議「火曜会議」を主催し、情報収集を始めました。1949年秋、藤村は渋谷区上山町にある旧鍋島藩邸を確保し、火曜会議はそこに移されました。毎月第2火曜日の夕方に夕食会として開催されました。ブルームは活動の詳細を毎回ワシントンに報告していました。朝日新聞の笠信太郎が日本側の会議主催者でした。集まった日本の指導者には、笠信太郎、国際文化会館会長松本重治共同通信取締役松方三郎、文芸評論家の浦松佐美太郎、農業経済学者の東畑精一、政治学者の蠟山政道前田多門文部大臣、信越化学取締役の佐島啓愛などが含まれていました。彼らは「8人のサムライ」と称されました。これらの活動の背景には、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーがCIAの日本での活動を許可しておらず、ブルームの部下はほとんどいませんでした。時折、吉田茂首相が近くの麻生太賀吉宅から歩いて参加し、ブルームも大磯の吉田邸に招かれました。火曜会議は1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効した後、解散しました。

国際文化会館会長 松本重治
共同通信取締役 松方三郎
農業経済学者 東畑精一
政治学者 蠟山正道
文部大臣 前田多門
内閣総理大臣 吉田茂
麻生セメント会長 麻生太賀吉

退職と死

火曜会議が解散した後、ブルームはCIAを引退しました。1956年、彼は神山町の邸宅を売却しました。引退後は私企業で働きました。

1951年にアレン・ダレスが中央情報局の副長官に任命されるまで、ブルームはCIAの職員ではなく、国務省の職員であり、ダレスの個人的な協力者でした。1952年7月、平和条約の後、ブルームの名前はアメリカ大使館とGHQ外務省のスタッフリストから消えました。彼の公式な肩書きは明確ではなく、ブルームを日本で最初のCIA支局長と呼ぶのは適切ではないとする意見もあります。

ブルームは日本関連の文学や浮世絵の熱心な収集家でもありました。CIAを引退した後、彼は松本清張の小説「点と線」の英訳(共訳)を完成させました。1978年、円高による生活費と税金の上昇を理由にニューヨークに移住しました。横浜市の依頼により、ブルームは自身の書籍コレクションを開設準備中の横浜市歴史アーカイブに寄贈しました。この寄贈はドナルド・キーンによって推薦されたとされています。1981年6月に開館した博物館には「ポール・C・ブルーム・コレクション」が展示されています。ブラムは開館式に出席しましたが、その後日本に戻った後に病気になり、1981年8月16日にニューヨークで亡くなりました。ブルームの遺言に従い、追加の寄贈が横浜市歴史アーカイブに行われました。「ポール・C・ブルーム・コレクション」には、16世紀以降の西洋人による日本関連外国書約5200冊、西洋研究や横浜に関連する日本の書籍約700冊、横浜の浮世絵や瓦版、古いヨーロッパ地図など約500点が含まれています。さらに、日本学者のベイシル・ホール・チェンバレンに関連する資料も含まれています。

ブルームは彼の日本関連の文献コレクションを横浜開港資料館に寄贈しました。

戦後、日本初のスパゲッティ専門店「壁の穴」の創業者である成松孝安は、火曜会議が開催されていた当時、ブルームの邸宅で執事として働いていました。彼は横須賀海軍基地で言語通訳としても活動していました。1948年、成松が横須賀の海岸でノーマン・メイラーの本を読んでいるところをブルームが見つけ、成松を引き抜こうとしましたが、最初は断りました。しかし翌日、横須賀の提督から「ブルームさんは力を持っている」と説得され、成松は承諾しました。成松は良く扱われましたが、「見たことや聞いたことを誰にも話すな」と口止めされました。ブルームは成松を含む4人の人々を火曜会議のために邸宅に雇いました。1953年、平和条約の発効後、火曜会議が解散したことで成松はブルームの邸宅を引退しました。同じ年、彼はブルームや他の知人からの支援を受けて、東京の田村町にスパゲッティ専門店「壁の穴」を開店しました。この店の名前もブルームによって付けられました。

1998年、ポール・ブルームの甥であるロバート・S・グリーン(ジャズピアニスト)が、ブルームの伝記『ブルームさん!:学者、兵士、紳士、スパイ、ポール・ブルームの多様な生涯』を執筆しました。この本はジュピター・コーポレーションから出版されました。

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最後に

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