コルドリエクラブ
コルドリエクラブの発足
コルドリエクラブ、正式名称人間と市民の権利の友の会といい、1790年5月21日にパリでもっとも過激な地域と目されていたコルドリエ地区でジョルジュ・ダントンの下に結成されました。パリのコルドリエ修道院で会議が開かれ、「自由・平等・友愛」をモットーとしました。
彼らの標語から推測すると、コルドリエクラブが、フリーメイソン、イルミナティ、薔薇十字団のいずれか、もしくはすべての強い影響を受けていることがわかるでしょう。
コルドリエクラブはジャコバンクラブよりも会費が低く設定されており、会員には特に制限を設けていませんでした。コルドリエクラブは300名の会員で埋め尽くされ、壁には人間と市民の権利宣言が掲げられ、演壇の後ろには真ん中にルソー、両サイドにミラボーとエルヴェシウスの胸像が置かれていました。
ミラボーはイルミナティ、エルヴェシウスはフリーメイソンとして知られていますので、この事からもコルドリエクラブもこの類の友愛結社であることが伺えます。
シャン・ド・マルスの虐殺
シャン・ド・マルスの虐殺は1791年の6月20日に起こったヴァレンヌ事件が切っ掛けとなり、7月17日にパリで起こった虐殺事件です。
ミラボーが急死したことで、後ろ盾を失ったルイ16世は、家族と共にオーストリアへの亡命を企て、ヴァレンヌで捕まってしまいました。
ミラボーはルイ16世をサポートする一方で、ジャコバンクラブの前身であるクラブブルトンの創設者でもあります。オルレアン公ルイ・フィリップ2世と共にイルミナティでもあり、オルレアン派であるという向きもあります。私個人の感想としてミラボーは非常に立ち位置のよく解らない人です。
ヴァレンヌ事件の責任を問うべく、ジロンド派の指導者ブリッソーが王の退位を要求します。これに対してパリ市長のバイイは戒厳令を発し、ラファイエットが国民衛兵を配備します。
この時に群衆を率いたのがコルドリエクラブのダントンであり、彼の秘書であったカミーユ・デムーランでした。この時の群衆と国民衛兵との激突により、群衆が虐殺されたため、この事件はシャン・ド・マルスの虐殺と呼ばれるようになりました。
この事件により、パリ市長のバイイは11月16日に解任され、ナントで隠遁生活を送っていましたが、1793年に逮捕・処刑されました。ラファイエットの名声は地に落ち、後の1792年のテュイルリー襲撃に際して、ネーデルラントへ逃亡しました。
テュイルリー襲撃と九月虐殺
テュイルリー襲撃は、ダントンとその秘書、デムーラン、ファブール・デグランティンらがその計画・実行に関わりました。革命勢力はルイ16世のいるテュイルリー宮殿を襲撃するために民衆を煽動し、またマルセイユから連盟兵が到着すると1792年8月10日に連盟兵と民衆の総勢2万人宮殿を襲撃しました。
テュイルリーを守っていたのはスイス傭兵、憲兵、国家警備隊などで、総勢5000でした。スイス傭兵とマルセイユ連盟兵・サンキュロットの民衆の間で激しく戦闘が行われ、この戦闘でスイス傭兵の多くが殺されました。この襲撃の結果、ルイ16世とその家族は、タンプル塔に幽閉されることになりました。
この日より1カ月を待たずに、コルドリエクラブのマラーにより反革命勢力の一掃が計画され、ダントン、ロベスピエール、デムーランらがそれを指揮しました。実行部隊は、マイヤールが率い、マルセイユ連盟兵もこれに従いました。彼らはアベイ監獄、カルム監獄などを襲撃し、聖職者や王党派、生き残ったスイス傭兵などを殺害していきます。この時殺害された数は推計で1000人を超える数とされています。この時の虐殺事件を九月虐殺と言います。
コルドリエクラブの一員であるマイヤールは、1789年のバスティーユ襲撃の時の義勇兵を率いるなどしています。バスティーユ襲撃の際に、市民を煽動した人物がデムーランであり、バスティーユ襲撃事件でもコルドリエクラブのメンバーとなった人物が深く関わっています。マイヤールは同年のヴェルサイユ行進の際もパリ市民を煽動していたことが知られています。
コルドリエクラブの分裂と消滅
コルドリエクラブは主にダントン派とエベール派に分かれていました。マラーやメイヤールはどちらにも所属していませんでした。
コルドリエクラブは、後に過激派のエベール派が主導権の握り、ダントン派はコルドリエクラブから離れていきます。マラーは1793年にシャルロット・コルデーに暗殺され、エベール派の多くは1794年3月24日にギロチンにかけられコルドリエクラブは消滅しました。ダントン派も同年の4月5日に同じくギロチンによって処刑されました。
コルドリエクラブの派閥
ダントン派
ジョルジュ・ダントン Georges Jacques Danton
コルドリエクラブの創設者。マラー、ロベスピエールと共にジャコバンクラブの指導者となる。シャン・ド・マルスの虐殺の後にロンドンに亡命。帰国後にはテュイルリー襲撃や九月虐殺などにおいて主導的な役割を担った。
カミーユ・デムーラン Camille Desmoulins
バスティーユ襲撃に際しては、群衆に向かって武器を取り、花形帽章を付けることを促した。ミラボーがデムーランに新聞記事の依頼をして以来、ジャーナリストとしての名声も高めた。テュイルリー襲撃にも積極的に参加し、法務大臣となったダントンの秘書となった。ロベスピエールと対立し、ダントンともに処刑された。
ファーブル・デグランティン Fabre d'Églantine
ダントンの秘書の一人。劇作家・詩人でもあり、革命歴の月の名前を考えたとされている。のちにダントンと共に処刑される。
ピエール=フランソワ=ジョゼフ・ロベール Pierre-François-Joseph Robert
ダントンの秘書の一人。ブリュッセルに定住したため、ダントン派の粛清から逃れている。
ベルトラン・バレル Bertrand Barère
フリーメイソンでありオルレアン派。ヴァレンヌ逃亡事件の後、共和派、フイヤン派に加わる。1793年にジロンド憲法プロジェクトを起草する憲法委員会のメンバーとなり、さらに平原派となった。エベール派とダントン派粛清後、公安委員会の強硬派に属し、デルボワやビョー=ヴァレンヌらと共にテルミドール9日のクーデターを強行。翌年に逮捕されるが、刑務所から脱走し、1841年まで生きながらえた。
ピエール・ラクロ Pierre Laclos
作家であり、フリーメイソンのメンバー。革命以前よりオルレアン公ルイ・フィリップ2世を助けた。のちにオルレアン派として逮捕されたが、テルミドールのクーデターの後に解放された。
エベール派
ジャック・エベール Jacques Hébert
ヴォルテールに共鳴し、フランスの非キリスト教化運動を推進した。九月虐殺を支持し、更に1793年にはマラーと共にジロンド派を激しく攻撃した。ロベスピエールと対立し、1794年3月24日にエーベル派の仲間と共にギロチンによって処刑された。
アントワーヌ=フランソワ・モモロ Antoine-François Momoro
革命期の「団結、共和国の不可分性;自由・平等・友愛、さもなくば死」という標語を打ち立てる。フランスの非キリスト教化に積極的に参加し、理性の祭典の支持者でした。理性の祭典の女神を演じたのは彼の妻であったソフィー・モモロだった。
シャルル=フィリップ・ロンサン Charles-Philippe Ronsin
1793年にパリの革命軍の総長に就任。エベールらと同日に処刑された。
ピエール・ショーメット Pierre Chaumette
1792年にパリ・コミューンの大統領に就任。ジロンド派に反対し、恐怖政治の確立に主導的な役割を担いました。フランスの非キリスト教化運動を展開し、ノートルダム大聖堂で理性の女神を称える祭典を開催する。ゴーベルらと同じ日に処刑される。
ジャン=バティスト=ジョセフ・ゴーベル Jean-Baptiste-Joseph Gobel
カトリックの聖職者。イエズス会大学で学び、ドイツ大学で神学を学んだ。1750年にカトリックの司祭を叙階された。1791年の聖職者民事憲法の宣誓を行うなど、それを指示した。同年にローマ教皇非公認の憲法に基づくパリの大司教に選ばれた。エベール派は彼の非キリスト教化政策を支持したが、1794年にギロチンにより処刑された。
マリー=ジョゼフ・シェニエ Marie-Joseph Chénier
劇作家。1789年に『シャルル9世』で成功をおさめ、デムーランに賞賛された。1791年にパレ・ロワイヤルにて『ヘンリー9世』を上演。ルイ16世の処刑に賛成票を投じている。
フランソワ=ニコラス・ヴィンセント François-Nicolas Vincent
弁護士の書記官として働き、やがてロンサンと共に革命家として活動する。エベール派に属し、エベールらと共にギロチンにかけられた。
無所属の過激派
ジャン=ポール・マラー Jean-Paul Marat
1789年から『人民の友』を出版し、やがてダントンらのコルドリエクラブに合流した。九月虐殺を計画し、反革命派を一掃した。山岳派の中心メンバーだったが、入浴中にシャルロット・コルデーに暗殺された。ネスタ・ウェブスターはその著作の中でマラーをほぼ人間扱いしていない。それほど強い嫌悪感を示している。
ジャン=バティスト・カリエ Jean-Baptiste Carrier
イエズス会の学校に通った後、ジャコバンクラブとコルドリエクラブに加入した。またオルレアン公の逮捕を最初に呼びかけた人物の一人でもある。マラー派に属し、テルミドールのクーデターの後に、ナントでの虐殺行為が非難され処刑された。
フランソワ・シャボー François Chabot
フランソワ・シャボーはユダヤ教フランク派の創設者ヤコブ・フランクの従妹と婚姻関係にありました。義理の兄弟であるモーゼス・ドブルシュカはヤコブ・フランクと同じようにユダヤ教徒からキリスト教徒に改宗した銀行家でした。
スタニスラス=マリー・マイヤール Stanislas-Marie Maillard
バスティーユ襲撃、ヴェルサイユ行進、九月虐殺の最前線で活動していたメンバー。ヴェルサイユ行進では5日の扇動のみで、6日のヴェルサイユ宮殿への侵入はしていない。
テロワーニュ・ド・メリクール Theroigne de Mericourt
革命のシンボルとなった男装の革命家メリクール。農村の生まれだったが、出奔し、やがて高級娼婦となった。バスティーユ襲撃ではパレ・ロワイヤルにおり、テュイルリー襲撃の際に男装の出で立ちで、民衆の旗印となった。
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