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ウリヤノフ家とロシアの革命運動
レーニンと労働者階級解放のための闘争連合
前回にレーニンが1895年にサンクトペテルブルクで、「労働者階級解放のための闘争連合」を創設し、同年に逮捕され、同メンバーの多くがその後逮捕されていったことを述べました。
![画像1](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/56519039/picture_pc_174d08720337c1b1bdc31924fb0f0238.jpg?width=800)
レーニンはそれ以前の1893年にドイツの社会民主党の影響を受けたマルクス主義結社「社会民主党」で活動していたことが解ります。「労働者階級解放のための闘争連合」を創設する以前に、レーニンは西欧諸国を訪問し、スイスではロシアから亡命したマルクス主義者らで結成された「労働者解放団」のプレハーノフらと面会し、ドイツでは革命家のヴィルヘルム・リープクネヒトと面会しています。
![画像2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/56519086/picture_pc_a286cd31eecf67d353c544722472df87.jpg)
「労働者階級解放のための闘争連合」はそうした背景があって創設された組織で、レーニンは連合創設とともに逮捕され、一年以上刑務所で拘束されたのちに、東シベリアで3年間の流刑生活を送りました。流刑地でクルプスカヤと結婚し、1901年に刑期が終わりました。
レーニンの姉アンナ・ウリヤノヴァ
以前に、レーニンの兄、アレクサンドル・ウリヤノフが、秘密結社「人民の意志」のメンバーとしてアレクサンドル3世の暗殺を目論み処刑されたことを紹介しましたが、実はレーニンの姉もマルクス主義活動家でした。
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/56519223/picture_pc_2a8ad6288bf61622f137ed71cd8f3591.jpg)
レーニンの姉、アンナ・ウリヤノヴァはアレクサンドルよりも2つ上で、レーニンより6つ上です。レーニンが「闘争連合」を組織するよりもはやくに、モスクワにあった組合の「モスクワ労働組合」との関係を構築しています。更に、レーニンが逮捕されてからも、西ヨーロッパへと向かい、1897年にプレハーノフらの「労働解放団」と接触し、1898年には同年に設立されたロシア社会民主労働党のモスクワ委員会のメンバーとなっています。そこで、メンバーのミハイル・ウラジミールスキーやアナトリー・ルナチャルスキーらと協同作業を行っていました。
![画像4](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/56519270/picture_pc_900c24d470037c448e3de7ac50d48b4e.jpg)
![画像5](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/56519308/picture_pc_88eceef1315531a2792b1d9b558bdc58.jpg)
更に彼女はレーニン、プレハーノフらと協力してイスクラの配布に協力し、1903から1904年にキエフやサンクトペテルブルクでも活動するほか、1905年から1907年のロシア第一革命でも、レーニンらが設立した出版社の編集委員としてそれらの活動を支援していました。彼女は1917年にロシア革命が勃発するまでに、5度にわたって逮捕されるほどの活動家でした。
![画像6](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/56519370/picture_pc_550a66f23f2edf368008bdd931287017.jpg)
レーニンの亡命生活
レーニンは1901年に刑期が終わってから、7月にスイスに亡命し、9月にはバイエルン王国のミュンヘンに移住しました。1902年4月からはロンドンに移り住み、そこでレフ・トロツキーと出会います。ロンドンではレーニンらのボルシェヴィキとマルトフらのメンシェヴィキとが対立、その後レーニンはジュネーヴでの生活を始めます。
![画像8](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/56521122/picture_pc_90765eee3c13dc26abfc102ec4b7fa0b.jpg)
1905年の革命の際に、レーニンは一時的にサンクトペテルブルクへと帰還し、革命運動を行いました。
1907年にはフィンランドへ移り、更に身に危険が及ぶと同年に再びスイスへと亡命します。レーニンはその後もロンドンやパリなどを転々としながら、イタリアやスウェーデンなどで休暇を過ごすなどしています。またこの間にも、ロンドンで開催されたロシア社会民主労働党の会議や、コペンハーゲンで行われた第二インターナショナルに参加するなどしています。
1910年代も、ポーランドのクラクフ、ドイツのベルン、チューリッヒなどなど、各地を転々とし、正確な足取りを追うのは非常に難しいです。
1917年に、二月革命が起こると、スイスでその知らせを聞いたレーニンは、ドイツ政府の協力を受けて、チューリッヒからドイツの港町ザスニッツへ封印列車で移動し、そこからスウェーデン経由でヘルシンキへと向かいペトログラードに到着します。その後七月蜂起が発生し、そこで立場を危うくすると再び逃亡し、国内の逃亡先で臨時政府転覆計画を退けられると、フィンランドへと亡命します。
1917年10月に再びペトログラードに戻ったレーニンは武装蜂起を主張し、そこで革命を成功させました。
![レーニン都市](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/56520532/picture_pc_ba0ad0dd14569cb99120bfbfeb5ce3c5.png?width=800)
レーニンがシベリアから帰還し、1917年のロシア十月革命までの間にロシアに戻ったのは、1905年に起こった革命の時の一時と、1917年2月の二月革命後の4月から8月の間であり、それ以外の多くの時間はヨーロッパでの亡命生活に費やされています。
ロシアにおける革命家勢力
レーニンの活動を見ても、レーニンの活動は主にヨーロッパ各地で行われていたことが解ります。19世紀末から1917年まで、ロシア国内でも繰り返し労働者運動、革命運動が展開されますが、そのたびに検挙されます。一方のヨーロッパに亡命していた革命家勢力は内部対立こそ発生しても、組織を長期的に運営することに成功し、最終的に十月革命の主導権は彼らの一部が握ることになりました。
以前にナロードニキが第一インターナショナルの運動と連動しているという点を指摘しましたが、彼らロシアの活動家は第二インターナショナルにおいて顔を覗かせます。
![画像9](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/56521404/picture_pc_64936993491d8b2e5e61d4fde658bab1.jpg?width=800)
しばしば、ロシア革命はユダヤ・フリーメイソンによって起こされたと指摘されていますが、レーニンの亡命生活を見るだけでも非常に大きな後援者の存在があることが解ります。
以後、闘争連合結成頃からのロシアの労働運動と、ヨーロッパに亡命したロシア革命家の足取りなどについて言及したいと思います。
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