オマージュと換骨奪胎、本歌取り
僕の好きなパロディ作品に『髭を剃ったL.H.O.O.Q』がある。『泉』で有名なマルセル・デュシャンの作品で、名画モナ・リザのパロディである。
これに先立ち、デュシャンは『L.H.O.O.Q』という作品を作っていた。モナ・リザのポストカードにヒゲを書き足しただけの作品で、名画に対する揶揄の意図があったらしい。
問題はそのあとで、デュシャンは次に、ただのモナ・リザのカードを指し、『髭を剃ったL.H.O.O.Q』と名付けた。自身の作品『L.H.O.O.Q』のパロディである、というわけだが、これはもちろん元の原画と変わらない。ただし、そこには「髭を剃った後のモナリザ」という新たな意味が付帯してはいる。これをどう評価すべきか。
一連の作品はレディメイドの在り方や、作品に意味とはどういうことか、あるいは著作権的な議論も呼んだ。
さて。二次創作にはさまざまな呼び方がある。パロディ、リスペクト、ファンアート、インスパイア、トリビュート……。どれも意味は重なっていて、しかし微妙にニュアンスの違いも感じる。
今回僕が声をかけていただいたのは「オマージュ」だった。過去の小説をオマージュしたお話を書け。と、言われたとき、どうするか。好きな作品を選ぶならきっと簡単、なようで、オマージュって何だろう、なにから手をつければいいだろう、と悩んでしまう。
いっそデュシャンのように、オマージュのオマージュということにして原作をそのまま出すか? 死後70年経っていれば怒られも生じまい。が、それでいいのか……?
結局僕は、那須正幹の名著『ズッコケ三人組』シリーズを選んで、一篇のオマージュ掌編を執筆した。この際に「オマージュ」に悩み、自分なりの答えを見つけられたので、自作解題も兼ねてここにまとめる。
敬意があればなんでもできる! ……のか?
ことの経緯は、新潟SFアンソロジー増刊『Laid-Back SF〜20世紀SFトリビュート〜』への参加である。この前に『新潟SFアンソロジー2023』という同人作品に参加させていただいていて、その経緯で再び声をかけていただいた。
増刊制作にあたり、企画者であり編集者のげんなり氏からいただいたお話は次の通りだ。
なるほど、これは面白そうな企画である。
アンソロジーということなら、できるなら多くの人が知ってる作品がよさそうだ。「昭和」なので古いものがよさそうで、僕はあまり本を読んでなかったこともあり選書に悩むが、那須正幹の『ズッコケ三人組』シリーズなら大好きだったし、同世代なら大体の人が知っているはず。よしこれでいこう。
と、決めてみてからふと気づく。
オマージュってどうやりゃいいんだ?
辞書を引くと、「オマージュ」について次のような定義があった。
Wikipediaだとこう。
少なくとも「敬意」が必要なのは確かのようだ。デュシャンの手は使えまい。ではお馴染みの三人組を登場させたり、花山小学校を舞台にしようか。だけど、それはどちらかというと「スピンオフ」に近くて、僕が思う「オマージュ」とは違う気がする(※)。
※あくまで僕が考えるオマージュなので、そのような手法を他の人がオマージュと捉えることを否定するものではありません
「本歌取り」と意味
そんな折、杉本博司の『本歌取り 東下り』なる美術展が開かれていた。
杉本博司は写真家として知られるが、美術品のコレクターでもあり、また、それらにインスパイアされた作品も多く制作している。同展示では「本歌取り」について、次のように説明していた。
これは参考になりそう、ということで観てみると、古今東西(まさに古代エジプトから仏教思想から現代アートまで)を本歌としつつ、これらに影響された様々な作品が展示され、悔しいくらいに素晴らしかった。
例えば『ブロークン・ミリメーター』は、ニューヨークのSOHOに常設展示される『ブロークン・キロメーター』を本歌とした作品。前者が1kmの真鍮棒を2mごとに分割展示するのに対し、『ブロークン・ミリメーター』は古墳時代の勾玉をミリ単位で展示し、好対比としている。
例えば『時間の矢』は、鎌倉時代につくられた舎利容器に自身の作品『海景』を嵌めこむことで、現代にいたるまでの時間の経過や積み重ねを示している。
また、写真で名を成した人らしく、『冨嶽三十六景』の赤富士『凱風快晴』を本歌とした赤富士の屏風写真は圧巻の一言だった。
それら作品を俯瞰整理してみると、「本歌取り」はいくつかの類型に分けられそうだった。
やり方のひとつは、本歌となる作品と何かとを組み合わせたり、対置することで、新た意味を創り出すこと。それから、技法やエッセンスを抽出して引用し、技法やエッセンスに意味を見出す、あるいはそれがもつ意味を引用する、という手法。あるいは、本歌を踏襲的に再制作することで、意味に別の視点を与えたり、新たな意味をもたらす方法。
いずれもポイントとなるのは「新たな意味を創る」ということであり、そこに何らかの形で「本歌」を寄与させている。
これは、僕が思う「オマージュ」にしっくりくる。そこで今回僕は「オマージュ」を次のように定義した。
『ズッコケ三人組 山賊修行中』のSoW
さてさて、僕が『ズッコケ三人組』シリーズでもオマージュ先に選んだのは、シリーズ第十作となる『ズッコケ山賊修行中』(1984年刊)である。
一番記憶に残っていたから、というのが端的な理由だけど、数十年経ってもドキドキが思い出せたし、いざ再読するとやはり手に汗握っておもしろかった。
一応あらすじを紹介すると、小学六年生の三人組が近所の大学生に誘われ、中国地方の山中をドライブした帰り道、「土グモ」を名乗る山賊集団に誘拐される、というお話だ。
さて、本作をオマージュするにあたりまず行ったのは、エッセンスの抽出だ。この物語の何が面白かったか、何に惹かれたのか。それら「敬意」を具体的に抽出していく。
書き出すと、おおむね次のようにまとめられた。
1.歴史ロマン
天孫降臨神話に対するいわゆる出雲系の伝説や、現実でも語られる「土ぐも」神話がモチーフとされ、歴史ロマンを感じた。
2.「おうらみもうす」の合理性
人々が狂信集団を信じることの合理性として、「おうらみもうす」という神事の合理性が語られていた。これはトンデモではなく、一般宗教にも通じる普遍的心理に思え、説得力を感じた。また大人になった現在の視点からすると、習俗的なものが失われることへの問題提起としても興味深かった。
3.狂信的集団が日本の田舎にひそかに根を張っていることの不気味さとリアリティ
説明は省くけど、確かにそういうことがあってもおかしくないかも、と思わせてくれるような子供だましではないリアリティが本作は担保されていた。
4.日本社会に対する風刺
これも詳細は省くが、日本社会に対する風刺もこの著者ならではのエッセンスのように思えた。
5.土グモ一族に残る、という堀口青年の選択への驚き
これはネタバレになるけど、三人と一緒に誘拐された堀口青年は最後、三人を逃がしてくれつつ、彼なりの考えにより「残る」という選択をする。これは衝撃でありつつも、作者なりの「土グモ」の肯定にも思え、そうした多様性のあり方に考えさせられるものがあった。
6.「警察もグル」の驚き
これも驚きのあるシーンで、途中まで逃げ出した三人を引き戻したのがまさかの警察だったりする。子ども心にものすごくびっくりしたことを覚えていて、また、この背景は上述のリアリティにも結びついていた。
まとめると、「山賊という時代錯誤な存在について、一定の普遍性・多様性を背景にその合理性を描きつつ、子どもたちの冒険譚をスリル満点に展開」したのが、僕にとっての『ズッコケ山賊修行中』であり、センス・オブ・ワンダー(SoW)だ。
このエッセンスを僕なりに咀嚼し、再構成すれば、それはきっと『ズッコケ山賊修行中』を換骨奪胎した作品、本歌取り、すなわちオマージュと呼べるものになるだろう。
ちなみに作者自身はどう考えていたかも、あとがきを読んで確かめておく。
概ねズレてはいなさそうで一安心。まあ、ここはズレててもいいんだけど。
『トンチキ三人組の遊民生活満喫中』
以上の通りにエッセンスを抽出し、『ズッコケ山賊修行中』へのオマージュとして書いたのが、新潟SFアンソロジー増刊『Laid-Back SF〜20世紀SFトリビュート〜』掲載の拙作『トンチキ三人組の遊民生活満喫中』だ。
本作執筆の起点としては「山賊による誘拐をどう描くか」から考えた。21世紀のいまオマージュを作るのだから、やはり時代はいま、あるいはそれより未来にしたい。時代背景や社会環境の変わったなかで「山賊による誘拐」は果たして成立するのか。これに応えることは同時に、本歌の要素「日本社会への風刺」に応えることにもつながるはずだ。
そこで、舞台設定を少子高齢化がさらに進んだ近未来とし、本歌「土グモ一族」に相当する狂信集団を「ひそかにネットワークを広げる怪しいオンラインサロン」と設定した。「怪しい」と書いたが、僕自身は陰謀論への傾倒や、科学を疑う姿勢にも一定の合理性はあると考えていて、本歌で「土グモ」への一定の理解が示されたように、あくまで肯定的に彼らを描いた。
神話的要素を加えるにあたっては、山ではなく海にした。近未来ではリアルタイムオンライン翻訳や情報技術により国境も薄れているだろうから、山幸彦・海幸彦伝説、あるいは竜宮伝説を立て付けにして、アジア一円に広がる遊民集団というものを想定した。紙幅の都合で明示は避けたが、作中に登場する人々は日本人ではない。
紙幅、といえば今回一番苦労したのは尺だった。なにしろ規定枚数は原稿用紙六枚という短さで、ここにひとつの物語を閉じ込めるにはいつも苦労する。
ので、本歌で印象深かった「警察もグルだった」「堀口青年が残る選択をする」のふたシーンをなんとか収められるようにして、かつこれは冒険小説であるから、旅を爽やかに終えられるよう、シナリオを切り出した。
最後に、肝心の登場人物たち。調べると、ズッコケ三人組シリーズは子供向けキャラクター小説の走りと言われ、ハチベエ、ハカセ、モーちゃんという魅力的なキャラクターがシリーズ化を牽引したものとされる。なるほどなるほど、ハードル高いね……。
キャラ設定はそれなりにがんばったけど、一朝一夕でそんな都合のいい魅力的キャラが描ければ苦労しなくて、結局ズッコケ三人組をかなり踏襲した三人組に相成った。とはいえ自分としては気に入っていて、ハチベエを女の子に置き換えた「ナナチキ」は僕が大好きな近所の女の子をモチーフにしてたり、ハカセに相当する平賀少年もYoutubeまとめ動画に親しむ現代的な人物だったり、今後も何かに登場させたい。
『Laid-Back SF』めちゃおもしろいよ!
ということで、編集長の助言も多分に受けつつなんとか書き上げられた拙作は、「オマージュ」を考えるうえでたいへん勉強になった作品となった。
そして、掲載いただいた『Laid-Back SF』には他にもたくさんのオマージュが載っていて、原風景をくすぐられる素晴らしい掌編集となっている。それぞれが原稿用紙六枚と読みやすいのも贅沢だ。
ぜひ本書を手に取り、オマージュや、あるいは元となった名作群に思いを馳せてもらいたい。
おまけ
拙作執筆後に知ったけど、『ズッコケ山賊修行中』はなんと那須正幹自身により後日談『ズッコケ中年三人組 45歳の山賊修行中』が2019年に刊行されていた。
中年になった三人組の生活、そして土グモ一族のその後はなかなかにビターで、しかししっかり冒険譚でもあって、最高だった。という感想を次の記事でも書いた。
『ズッコケ中年三人組』はズッコケファンには必読と思えるので、こちらもぜひ読んでみてほしい。僕は大興奮した。
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