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菊池成孔インザハイツ評を引用しながら感想(4680文字)

タイトルにあるように菊池成孔が書いた映画インザハイツ評の感想を本文を引用しながら書きます。
映画インザハイツをすでに観た人はもちろん、まだ観ていない人にも興味を持ってもらうことが目的です。
また映画評論に馴染みがない人にも優れた評論を読む喜びを知ってほしいです。
内容にも当然触れているので何も知りたくない人は読まないようにしてください。



それでは始めます。

本文リンク
『イン・ザ・ハイツ』(前編)
『イン・ザ・ハイツ』評(中編)
『イン・ザ・ハイツ』評(後編)


世界市場対応として充分成立している本作は、製作者の前作に相当する『ハミルトン』、後に控えているスピルバーグ版『ウエストサイド物語』との並列関係から逃れられないだろう。テレビドラマまで含めるならば、「あらゆるマイノリティ」を扱った「学園ミュージカル」の傑作『glee/グリー』も並列関係にあると言える。

他の作品との比較から始まります。

本来、夢物語であったブロードウエイミュージカルに、全く逆層の「リアルな移民問題」というストーリーをはめ込んだ、自己矛盾にも似たキメラであり、作用と反作用の原理を内包する。その最初の成功例が『ウエストサイド物語』であることは言うまでもない。

夢と現実の対比。

『ウエストサイド物語』の悲劇的結末は、「移民問題の未解決性」が「一つの物語の悲劇的結末」という、似て非なるものと交換されることで、辛うじてこの問題から逃れている。しかし、『イン・ザ・ハイツ』は堂々たるハッピーエンドである。

映画サタデーナイトフィーバーの苦い結末を思い出しました。

『glee/グリー』は、ヒスパニック限定の移民問題だけではなく、アジア系、アフリカ系、ロシア系、ユダヤ系と、全方面的に移民の問題を拡張し、LGBTQや身体障害、不妊やジェンダー差別、家族の崩壊までをも含む、あらゆる差別の伽藍を一挙導入し、精緻に配置すること、オリジナル曲よりも、70年代を中心に、50年代から10年代までの、あらゆる「ポップ・ミュージック(フランク・シナトラからレディー・ガガまで)」のカヴァーを召喚すること、といった拡大政策によって、問題の中心点を空洞化させ、各問題の社会的な未解決性を保留にしたまま、圧倒的とも言えるブロードウエイミュージカルスキリングがもたらす、ハッピーエンディングの力が、「どんなに苦しくても、前向きに逞しく生きてゆこう」効果の最大値を記録している

乃木坂46の久保史緒里が大好きなglee。

『ハミルトン』は移民問題を含む、合衆国内の全ての人種問題を、メタレベルに引きあげてる。本稿にある「ミュージカルと移民問題の衝突による作用と反作用」も「どんなに苦しくても、前向きに逞しく生きてゆこう」というイージーウエイも、そもそも生じないリージョンにある。

ハミルトンがすげー話。

 若干スリップするが、二種の合成物、その原料を双方ともに自国で生み出した母国、合衆国でさえ、その作品数が少ない「移民問題ミュージカル」という形式の、実質上の同盟国である我が国における観客のリテラシー/リアリティ双方の低さは、世界でも有数ではないかと思われる。

日本での受容。

最初に結論を述べてしまえば、前編で走り書きした通り、『イン・ザ・ハイツ』の音楽は、パワフルな天才リン・マニュエル=ミランダ(作詞、作曲、編曲も全てこなすミュージカル音楽家は、増加傾向にあるとはいえ、まだまだ希少である。彼のパートナーであり、編曲と指揮を担当するのはキューバ系の俊英、ハリウッドとブロードウエイのアワード・ゲッターであるアレックス・ラカモア。ちなみにバークリー音楽院卒業)の、鳴らせまくり、まとめ上げまくる手腕によって、大変素晴らしい水準にあるが、意味としては「ラテン・フレーヴァーをたっぷりと効かせた、ミュージカル音楽」の枠は出ない。しかしこれは、誹謗や矮小化を意味するものではない。

パートナー、アレックスラカモア。

シンプルに、『ハミルトン』さえなければ、本作は、観るものをグラつかせることはなかっただろう。『ハミルトン』の音楽と設定は、文化的搾取に対する再搾取、もしくは逆搾取ともいうべき、(まだクチバシが青いままの)<多様性社会>に於ける、レコンキスタドール。という、恐るべき立場にまで立ったが、『イン・ザ・ハイツ』は、第一に、音楽的には後述する中南米一帯の豊かな文化を、ミュージカル界に搾取されることを善しとし、以下ドミノセオリー的に、物語設定、作品の位置までも搾取の構造に飲み込まれている。このことは正反対の評価が可能だ。段階的な革命の初動か、世界市場対応としての妥協か。

ハミルトンからのインザハイツ。

 とまれ、本作の音楽は掛け値無しに素晴らしい。特に、冒頭から実に約20分間に及ぶ<クラーベの保持>は、世界中の中南米音楽の愛好家をして唸らせる「素晴らしいアイデア」であり、オーソン・ウエルズの(奇しくも、敢えて原作から舞台をメキシコに移した)ノワールムーヴィー『黒い罠』(1958年)の、有名なオープニングの長回し(3分21秒)へのオマージュではないかと思わせるものがある(ちなみに本作では、バズビー・バークレーが振り付けを担当した『百万弗の人魚』から『フェリーニのアマルコルド』まで、欧米のクラシックスへのシネフィル的オマージュが散見される)。

古典映画へのオマージュ。


ヒスパニック文化圏の中でも、最近、治安の悪化により、年間の死者数がイラクとアフガニスタンを超えた、地理上の区分における「中米諸国(グアテマラ、ベリーズ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマ)」よりも北に位置する、カリブ海沿岸諸国内での大アンティル諸島内独立国である、キューバ、ジャマイカ、プエルトリコ、ドミニカ、ハイチ、(並びに大陸内にあるメキシコ)といった諸国の持つ、西アフリカに匹敵する音楽の豊穣、移民を通じて世界中に浸透している音楽文化(サルサはその中で最も成功した都市音楽と言える)のプレゼンテーションとデクラレーション(宣言)として、これ以上の方法と完成度は、しばらく現れないだろう。

厳しい現実。

『ウエスト・サイド・ストーリー』の音楽はかのレナード・バーンスタイン(映画音楽の巨匠にして、やはりラテンミュージックのエキゾチックな導入に成功例の多い「エルマー・バーンスタイン」と混同されやすいので注意)である。ユダヤ系アメリカ人、共産主義の支持者、バイセクシュアルの公言と実行、クラシック界というサロン文化の中で、小澤征爾をフックアップした、等々、クラシックマニアでなくとも名声は確保されている。

バーンスタイン二人。

バーンスタインのブロードウエイミュージカル進出第1作『オン・ザ・タウン』(1944年→第二次大戦終了前年)は、ミュージカル映画のクラシックス『踊る大紐育』として映画化されたが(筆者は、『イン・ザ・ハイツ』という題名は、この作品への遠いアンサーを意味していると推測している)、事後的に俯瞰すれば、これが『ウエスト・サイド・ストーリー』起用への直接的な布石であると思われる。

前作との比較#2。

 アメリカン・カルチャーが牧歌的に夢のように堪能できる時代は終わった。そして、そのことは、再び、実は建国時から開始されている文化的な反復運動なのである。アメリカは、他の国家と同様、夢をみては醒める。それが戦争とエンターテインメントの領域で起こるという点にこの大国の属性がある。2世以降の移民エリート(彼らは皆、高い教育と生活水準を手にしている)たちが、不法移民の問題を扱って大いに躍動させる、その躍動感と、移民リアリティが極めて低い、実質上の同盟国民である我々はどう相対せばいいのだろうか?

アメリカ論。

カルラ(ステファニー・ベアトリス好演。彼女はダニエラの美容院がブロンクスに移転する際、ワシントンハイツの住民たちに車乗から手を振り「みんな! 愛してる! 大好きよ!」と手を振りながら去ってゆくシーンで、『フェリーニのアマルコルド』へのオマージュを引き受ける)は、各々が自分の出自を歌い上げるシーンにおいて、画面中央に躍り出て「あたしはウィスコンシンで生まれたの、でも、ママはドミニカでキューバ、パパはチリでプエルトリコ、だからあたしはチリ・ドミ・キュリカン、の結局ウィスコンシン娘」と、そのダンスの躍動とは裏腹に、「あーめんどくさい」というキュートな苦笑の後に、大群舞に戻る。当人をして、ヒスパニックの民族問題は、斯様に複雑である。

オマージュへの言及#2。

物語を動かす原動力である、「悪」も登場しない(合衆国そのものでさえ、攻撃や批判の対象には、実質上、なりきっていない)。誰もがハイツの善人であり、助け合い、裏切りも奪い合いもない世界は、まるで落語における貧乏長屋のようである。パーティーともなれば豪華と言って吝かでないカリビアン料理が山のように並び(ものすごくうまそう)、サルサのクラブパーティーは、80年代のそれのようだ。

落語との比較。

では、悪、悪人、悪い国家、も登場しない、落語の貧乏長屋のような、生活感と善意あふれる世界で、物語は、何を原動力に駆動するのだろうか? これが何と「停電」なのである。
 いわゆる「ニューヨーク大停電」は、1965年、1977年、2003年に起こり、これらは映画の題材にすらなった、都市の機能停止という大ネタだが、以降、ニューヨーク市は「停電都市」と呼ばれつつも、配電や通電のシステムテクノロジーは向上を続け、場合によっては本作の制作期間内かもしれない、2019年7月13日の午後7時にも大規模なそれが起こっているが、ほぼ24時間以内に復旧/通電している。

停電が原動力。

筆者は、この長文で繰り返し指摘してきた「本作が抱く、リアルとファンタジーの合成」の、最も詐術的な(=見事な)脚本上のテクニックが、この「今時(現代であることは間違いない。登場人物は全員スマホを持っている)、こんなに長く停電が続くの?」という点に凝集されていると思う。

リアルとファンタジー。

こうして<ミュージカルが持つエネルギーと、移民問題が持つエネルギーの衝突とその結果>は、既視感と未視感に満ちたハッピーエンドとして、強烈な結合効果を残す。これが移民の混血性のトレーシングとでもいうことなのだろうか? 違うのである。最後の群舞の終結とシンクロするエンディングは、ウスナビとバネッサの女児が抱き上げられ、持ち上げられ、クローズアップになった瞬間で止まる。つまり写真化である。彼女の<力強い>としか言いようのない、凛とした表情のポートレイト(それは、実際のデモで撮影された報道写真のようだ)が、怒涛のように押し寄せる夢の御都合主義エネルギーを独力でせき止める。その瞬間、本編はエンドクレジットへスムースに移動するのである。

お見事なエンディング。




古典映画のオマージュから著者専門の音楽からアメリカ論まで非常に射程が広い評論でした。
個人的には菊池成孔の文章は複雑に絡んだアナロジーが多く読みにくいと思っていたのでポイントを抜き出していけば自分だけでなく他の人にも伝わりやすくなるのではないかということを感じながらこの文章を書きました(ほとんど引用ですが、、)。
映画館でこの映画をみて気づけなかった多くの点をしれて非常に勉強になりました。
この文章を読んで少しでも多くの人がこの映画を観たり映画評を読む喜びを知ってくれたら嬉しく思います。