240415 日常

 クリストファー・ノーラン監督の映画「オッペンハイマー」を観た。「数学は楽譜だ。楽譜が読めることが大事なんじゃない。音楽が聞こえるかどうかなんだ。君には聴こえるか?」序盤のシーンでケンブリッジ大学の学生だったオッペンハイマーにニールス・ボーアが言ったセリフが印象に残っている。数学とは、単に計算をしたり方程式を解いたりする能力だけを問うているものではなく、深く直感的に理解することが大事であるということなのだろう。一流の物理学者かそうでないかかを分ける分水嶺が直観力だと聞いたことがある。終盤、オッペンハイマーが原子爆弾が大気に引火して世界中を破壊する確率は「ほぼゼロ」だと言い、わずかに残されている危険性を恐れていた。今の物理学では1兆分の1の精度で理論の正しさが確認されていると言うが、この時のオッペンハイマーの予測の「ほぼ」はどの程度だったのであろうか。科学に対する執着心とナチスに対する牽制という歴史的必要性ゆえに原子爆弾という脅威を世の中に生み出してしまった当事者は自分の作品たる原爆に対する自信と、実際にそれを使うことに対する大きな不安を抱えていた。
 「僕は揺れていたい」という作中の台詞に現れているように、オッペンハイマーは思想、アイデンティティ、女性関係…様々な両立しがたいもののあいだで葛藤し続けていた。原爆の父とも呼ばれた人がどんな時代背景の下、どのような思いで原爆の開発を進めたのか。また、原爆を生み出した後にどのような思いを抱えていたのか。ものごとに対して境界線を引いて白黒つけるのではない彼の姿勢は当時異端なものとして見られていたが、彼自身の視点というレンズを通さないと見えてこない矛盾に満ちた現実や問題に直面している様が描かれており、その帰結として彼の複雑性が生まれているのだなと感じた。

 ぬーん、堅苦しすぎる!
 一か月前くらいにゴジラ-1.0を映画館で観た時も感じたけど、最近の映画は没入感がありすぎてちょっと怖い。没入感がすごすぎて現実に生きている感覚が失われるから、精神が弱ってるときはよくない影響がありそう……。終演後に「今後もし自殺するとしたら映画を観た直後になると思う」みたいな話をしたら共感してもらった。生きるとか死ぬとかそういう暗い話ばっかりしてごめん。没入感緩和のために大きな音が出そうなシーンは耳を塞いで観るようにしてみた。トリニティ実験のシーンで咄嗟に耳を塞いだ。スクリーンからの強烈な光、天空に伸びる火柱とキノコ雲…あ、無音なのか、と安堵して手を離したら、かなり遅れて凄まじい爆音が鳴り響いて心臓がビリビリ震えた。演出は凄みがあった。でも泣くって。

 人生で何度目か分からない本を読めなくなる時期に入り抜け殻のようになっていたけど、星野道夫を読んでから少し調子が戻ってきた。誕生日に贈ってもらったラフカディオ・ハーン『日本の面影』をぽつりぽつりと読んでいる。

すべての枝という枝に、夏の積乱雲のように純白の花が咲き乱れ、目も眩むほどに霞んでいる。その下の地面も、私の眼前の小径も、柔らかく、厚く、芳香を漂わせて散った花びらの雪で、一面真っ白だった。

ラフカディオ・ハーン『新編 日本の面影』角川ソフィア文庫

 10ページ読めた。一文一文が味わい深くて、ちょうどいい歩みの速度なのかもしれない。早くも桜は散りゆく時期。毎日歩いている歩道がピンク色に染まっているのももう少しで見納め。いつか京都にある哲学の道の花筏を見に行きたい。

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