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福島県出身の児童書作家が東日本大震災・原子力災害伝承館に行って改めて考えた、福島のこと、震災のこと。

 実は、伝承館におじゃましたのは4ヶ月以上前の開館日当日のことです。
 どのように綴ったらいいのか、あれこれ考えながら少しずつ書き留めていたら長い時間が過ぎてしまいました。自分なんかが簡単に紹介していいことではない、でも実際に見たときのことを忘れたくない。そんな気持ちです。震災について、個人の感想も含みますので予めご了承ください。

 昨年の9月20日に開館した東日本大震災・原子力災害伝承館
 福島県双葉郡双葉町にあります。
 福島県は横に広く、太平洋に面する海側の浜通り地方、福島市や郡山市があり東北新幹線が通っている中通り地方、鶴ヶ城があり観光地も多い会津地方、の3つの地方に分かれています。
 伝承館がある双葉町は浜通り。わたしが住んでいる中通りから伝承館までは、車で2時間ほどかかりました。

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(パンフレットより)

上記の地図の通り、一部を除いた町のほぼ全域が現在も「帰還困難区域」となっています。地図の青い部分(特定復興再生拠点区域)とオレンジの部分(避難指示解除区域)以外に立ち入る際は、立ち入り通行証が必要だそうです。
 ICを降りて伝承館に着くまでの道にも、通行禁止の看板、バリケードがたくさんありました。住民や業者の方が帰還困難区域に立ち入る際も、時間やルールなどの決まりごとがあるそうです。自分の家に自由に帰ることができない人たちがたくさんいるということを、改めて知りました。

オープン初日の伝承館には県内外からたくさんの人が訪れていました。
美しいプロローグから始まる、壮絶な映像。
災害後の町の様子を物語る、資料の数々。
原子力発電所内で何が起き、どのような対応がなされたのか。
ふるさとへ対する県民の声、そして、復興への歩み……。 

自分に語彙力がないのも原因ではあるのですが、「感想」が綴れないのです。
「胸が苦しくなった」「涙が出た」というような事実はあるのですが、1フロアごとに感じたたくさんのことを言葉にまとめることはできない。きっと、軽々しく語るべきでもないのだと思っています。
ただ、県内に住んでいるくせに自分は何も知らなかったのだと、10年という区切りを前に改めて思い知りました。


 五十嵐の出身は中通り。震災の瞬間は郡山市にいました。民家の瓦が落ち、足元のアスファルトがひび割れていく光景。もちろん電車は止まり、やっとのことで家に帰ったらタンスや冷蔵庫が倒れ室内が滅茶苦茶になっていたこと。停電した街やコンビニから物が消えているのを見て先のことが見えない恐怖を感じたこと。10年という月日が経とうとしている今でも忘れることはできません。
  ですが、地震だけではなく、さらに大変なことが同じ県内で起きていました。停電のため翌日もテレビを見ることができなかった私は、遠方の親戚からの電話で津波の影響、そして原子力発電所の事故のことを知ったのです。

 しかし正直に言うと、
『福島第一原子力発電所って、どこにあるんだろう?』
 と事故のことを聞いた当時の私は思いました。
 浜通りのどこかだとは知っていても、実際に見たこともないし、自分の住んでいる市からどのぐらいの距離があるのかもわからない。
 福島県内で起きている事態なのに、どこか遠い世界のことのように感じていたのです。
 そんな曖昧な認識の中に、「とにかく何かがヤバいらしい」というような不確かな情報ばかりが入り込んできました。
 「戦争の時のように、黒い雨が降る。」
 「海藻類を食べると人体への影響が防げる。」
 当時、そんなメールがたくさん回ってきたものです。
 さらに「放射能はうつる」「被災した女性は子どもを産めない」など誹謗中傷に繋がる話も耳にし、実際に悲しい思いをされた方もいました。
 私も含め、知らないことが多すぎたのではないかなと今になって思います。

「あの日の経験を、みらいの教訓に。」
 伝承館のパンフレットには、そう記されています。
 あの日の経験や想いは当事者ではない自分が安易に語りつげる物ではなく、今回文字通り教訓として学ばさせていただきました。
 ですが、「防災の意識を持つ」ことや「根拠のない情報を広めたり安易に誹謗中傷してはいけない」ということなどは当たり前の教訓になってほしいし、私もなんらかの手段で子どもたちに伝えていきたいと感じています。
  少し遠くで見ていることしかできなかった私たちでも、みらいに伝えられることがあるのではないかと思いました。

実は昨年、お世話になっている出版社さんに「震災のことを今の子どもたちに伝える物語を書きたい」という相談をしたことがあります。新型ウイルスで大変な世の中の情勢を考えた結果、話は実現しなかったのですが、あのとき「福島県出身だから」という上辺だけの知識で本を書かなくてよかったなと思っています。もっと、あの日のことを理解してから伝える側になりたい。

昨年取材させていただいた方で、被災した地域を回るツアーガイドをしていた男性がいます。その方は避難区域のご出身で、高校生だった当時は県外に避難して高校に通っていたけれど、大学受験の時に「どうしても福島に戻りたい」と考え福島の大学を受験したとのことでした。もうずっと帰っていないご実家の思い出を話して下さった彼の表情は、おだやかでもありどこか寂しそうにも見えました。
ふるさとへの思いを教えてくれた彼の目は、ずっと真剣でした。
「震災を知らない子どもたちには、防災の大切さと自分の身は自分でしか守れないということを伝えたい」とおっしゃっていました。

児童向けの本の書き手の端くれとして、いつか彼の気持ちを代弁する物語を子ども達に届けたい
そんな思いを抱きながら、日々勉強の毎日を過ごしています。
行って、見て、聞いて、知らなかったことを知ることができてよかった。
これからも自分なりに学んでいこうと思っています。

先日、県内のニュースを見ていたら「“10年“はなんの節目でもない」という言葉を耳にしました。
あれから10年だと思うと何か大きな区切りのように感じていましたが、まだ終わってはいないし、20年経とうと30年経とうと忘れてはいけないことなんですよね。

いつか、あの日のことを風化させないためのお手伝いができるよう、児童書作家の端くれとして力をつけていきたいと思います。
拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

五十嵐美怜
(個人の感想ですので、不快な思いをさせてしまった方がいましたら申し訳ございません。また、地域のことなど、間違っている認識や知識があれば教えていただけると嬉しいです。)

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