「普通」じゃないことが「特別」だと信じていた。

はじめまして。北海道の大学に通っています。いけだまやのです。十勝というところで育ち、大学から札幌に出てきました。初めは地下鉄すらNAVITIMEを見ないと乗れませんでしたが、今ではすいすいと乗れているあたり時の流れを感じます。

感情を表に出すことに小さい時からどこか抵抗があり、考えることや感じていることを言葉にするくらいなら自分で消化したりするほうが楽しい、それが良いと思っていました。ですが、こうしてnoteを書いたのは、私のいつも考えていることを表現することで誰かの目に留まれば良いなと考えたからです。

今回のタイトルにあるように、私は小さい時から「普通」じゃないことが「特別」なんだと思っていたし、信じていました。そして、何を思ったか自分はその「特別」側にいるものだと思っていました。

そう思うきっかけは本当に些細で、保育園のころ先生に「まやのちゃん、左利きなんだね~!」と言われたことでした。あの頃の私は何に驚かれたのかも分からなくて、けど、なんだか嬉しいような、くすぐったいような気持ちになったことを覚えています。

利き手が周りと違う、そんなことで自分は「特別」だと信じるには若かったな~。と。何かを取り組めばそこそこ頑張れば人よりも出来たし、出来ないことのほうが少なかったと思います。シングルマザーの家庭で育ちましたが、別にお父さんが居なくても寂しくなかったのは、お母さん・おじいちゃん・おばあちゃんにとっても大事してもらってたからのはもちろん、お父さんが居ないことも自分は周りとは違うんだと思う要素の一つでしかなかったです。

自分が「特別」ではないと気付いたのは中学生になった時でした。勉強に着いていけなくなったし、本当は運動音痴だったし、周りに友達はいたけど、そもそも初対面の人がすごく苦手な私は新しい人間関係にどう順応していったら良いのかが分からなかったです。出来なくなって「特別」じゃないって気付いて、そんな自分を受け入れることができなくて。その代わり、私は「普通」じゃないことを選びました。

学校に行ったり行かなかったりを繰り返して、行っても空き教室で1日を過ごしたり、部活も選手からマネージャーになったり、自分が「普通」じゃないと思うことをして、それが「特別」になる方法の一つだと信じて疑わなかったです。学校に行かなければ親も先生も私を見てるし、マネージャーという違う経験をすることでどこか安心しようとしていたんだと思います。

高校では、自分にもそれなりのストレス耐性ができて「特別」ではなくても「普通」じゃなくても、自分というものを受け入れることが」少しずつできるようになってきました。だけど、そんな自分が持っている特性って何かあるんだろうか。そう感じるようになりました。

人よりできることが「特別」で、それができなくなったら「普通」じゃないことをして、そうすることで自分が「特別」に変わる。そう思っていた自分ができることって何かあるんだろうかと。


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