映画レポ|『ゴーストワールド』永遠に見つからない自分探しの旅へ
現在、全国各地で絶賛リバイバル上映中。
ずっと観たかった『ゴーストワールド』を
やっと観ることができた。
今作は、実力派女優のソーラ・バーチをはじめ、今やハリウッド女優として活躍するスカーレット・ヨハンソンなど、名だたる豪華キャストで彩られている。
ゴールデングローブ賞の最優秀女優賞をはじめ、さまざまな賞を受賞している名作でもある。
ぜひ、まだ観たことがない人はこの機に足を運んでみてほしい。
■あらすじ
■最高に10代してるなこの映画
高校生ぐらいの年頃って、なんで怖いものなんて何もないような気がするんだろうか。
内気な男の子をからかったり、いたずら電話をしたり。カフェでだらだらと過ごしては、好奇心の赴くままに行動する。そんなちょっと危なっかしい2人は、第三者視点で見ている分には大変おもしろい。
しかし高校の卒業を経て、登場人物たちの心は次第に変化していく。
些細なことで親友と喧嘩をした。ふと、「自分の居場所ってどこだろう?」と不安になる。考えるうち、なんだか消えてしまいたいような気持ちになってきた。
そんな前半の気怠げで最強な感じと、後半の自分がわからなくなってしまう感じが最高に10代でグッときた。
今思えばなんであんなことで悩んでたんだろう?と思うのだが、当時は本気だったのだ。逆に、その気持ちを忘れていた自分はすでに何かを失ってしまったような気がした。
■親友だけど、全然違う
イーニドとレベッカは親友でありつつも、いわゆる“マニア”なイーニドと、ある程度社会に順応できるレベッカは全く性質が異なる。
何度就職しても失敗してしまうイーニド。大好きなパンクは誰にも理解されず、男の好みも想定外。
自分は他人と違うことに疎外感を感じつつも、どこか他人を見下すような特別感も共存している複雑な気持ち。
なんかこの気持ち、めちゃくちゃわかるなあ。
言ってみれば令和の今、『ゴースト・ワールド』を観ている私たちだって一種のマニア(オタク)と考えられる。イーニドと同じく“レコードマニア”である、シーモアのこんな台詞が胸に刺さった。
「世の中の大抵の人は、ビッグマックとナイキで満足できるんだ」
今でこそ認められつつある“オタク文化”も、当時は生きづらさの悩みの種。イーニドとシーモアは孤独を特別感で誤魔化して生きていたのだろうか。
■ラスト、彼女はどこへ
ここからはネタバレを含む感想となる。
映画の冒頭から登場していたバス停を見て、最後イーニドは運行していないはずのバスに乗って街を去ってしまう。
彼女はもともと、「みんなの前からふと消えてしまいたい」という夢をシーモアに語っていた。
なぜ、そんなに寂しい夢を願っていたのか…。
もしかして彼女は、社会に溶け込み、凡人になることが怖かったのだろうか。
〈社会に溶け込むこと=自分を捨ててしまうこと〉のような気がして、自分を保てる場所へ逃れたかったんだろうか。
バスに乗る前、イーニドがシーモアを好きな気持ちは伝わっていた。ここからハッピーエンドへと向かう世界線も十分にあったと思うが、彼らは(また、脚本は)それを選ばなかった。
彼女がバスに乗り“ゴーストワールド”だけが取り残されたラストの映像…。映画を物語からテーマ性を持った作品へ昇華させた演出だと感じた。
■最後に
いや〜…ラストの演出も含めて本当に良かった!
正直スカヨハが好きだから…くらいのテンションで観に行ったのだが、かなり深いものを植え付けられた映画だった。
あまり詳しくはないが、終始流れているレコードの音楽もとてもオシャレで、心地よかった。
寂しくも後味の悪さはなく、また観たいと思える好みの内容であった。
では、ここまでお読みいただきありがとうございました🎞️
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