学生証を虚空に消した話
ある日の帰り際、ポストを覗くと大量の封筒が届いていた。そういえば大学が夏季休業に入ってからというもの、なんとなく昔から暗黙の了解で一家のポストの中を確認する係になっている私は家に篭りがちなっていた。そのため、1週間分ほどの封筒やらチラシやらが溜まってしまっていたようだった。
家に着くとそれらを何も考えず、父親のデスクにぼんと置いてしまうのが、もはや小学生の頃からの習慣であった。というのも、昔は特に自分宛に封筒やらチラシやらが届くことなどなかったからだ。なんなら今もそうだったりするが。
だが暫くして、父親から「おい、お前宛に何か来てるぞ。」と呼び出された。
全く身に覚えがない。
近日中で何か思い当たることがあるかと脳内で検索をかけようにも、唯一ヒットした最近受けた検定の結果発表は、もう少し先のはずである。
父親とその封筒をまじまじと覗き込む。
よくある小さいサイズの茶封筒で、半透明の窓がついているタイプのものだった。その窓の先にはしっかりと明朝体でうちの住所と私の本名が刻まれていた。
これは間違いなく、私宛に送られてきた茶封筒である。しかもその送り主は、思いもしないような場所であった。
「東京湾岸警察署…?」
不可解そうな二人の声が揃った。
「お前なんかやらかしたの?」
半笑いで父が尋ねてくる。
「ううん、そうだねぇ……」
と、言葉を濁しつつも、私はこの時既に、この一通の封筒が警察署から送られてきた要因を完全に理解していた。なんならそのことについては誰にも言わず、この「要因」は水に流せないかという魂胆だったのである。そしてその計画は完璧なはずだった。
なのにこのタイミングでこの封筒が届くなんて……
そんなことを考えているうち、父は時既に封を開け、中に三つ折りで入っていたA4の紙を開いていた。
終わった。魂胆が全て崩れ落ちた。まあ、ここまで物証が揃ってしまったならば、もはや言い逃れもしようがないだろう。
致し方ない。ここで全てをお話しよう。私のしょうもなすぎるやらかしを。
さて、話は二週間ほど前にまで遡る。
いつもの如くぼーっとTwitterを眺めていると、先輩と同期が何やら面白そうな話をしていた。なになに、メタバース…?についての展示会があると。
無知…というよりかは、知識の分布にだいぶ偏りのある私は初め、量子力学の一つの解釈により生じた宇宙は実は複数個あるのではないかという宇宙論のことかと思い、これは面白じゃないか、と「私、気になります!」とリプライを送った気がする。ちなみに「氷菓」は未履修なので、完全にエアプだった。ごめんなさい。観ます。
それから、その先輩が送ってくれたリンクから概要を見た時、脳内に住まうトシが脳内に住まうタカを「それは“マルチバース“宇宙論だろ!」と言いながら、ぺしっと叩いた。良い音がした。ただ、こういうツッコミは彼はあまりしなかったような気がするが、それは今はいい。
どうやらメタバースというのは、ネット上に作り出された3次元の仮想空間を意味する言葉らしく、要はその展示会というのは、VR(仮想現実)、AR(拡張現実)などに関わる技術を持った企業などが多く出店し、商談などを行う…といった趣旨のものらしい。なるほど、どちらにしろめちゃめちゃ面白そうじゃないか。
ただ、これはあくまで商談を前提としたものであって、そこに大学生三人で乗り込みに行くわけであるから、その夜は、どんな格好をしていこうか……という話を長らくしていた。Twitterで。
「ハワイの正装です!」と言いながら当日アロハシャツで現れる勇気は、私にはなかった。
さて、当日である。
会場は東京ビッグサイト。幸い千葉県民である私にとってかなり行きやすい駅であるためか、私は最も早く待ち合わせ場所である駅に着くことができた。
ちょうどその時、待ち合わせている二人との唯一の連絡手段であるTwitterが機能停止してしまっていたため、私はここでも書くことができないような本当にしょうもないツイートをここぞとばかりに垂れ流したりなどをしていた。
仕方ない。ただただ待つしかない。
真夏の駅の改札はひたすらに暑かった。このコンクリートの上に油を敷いて卵を割って落としたら、目玉焼きが作れるのではないかというほどの真夏日であった。いや、そこまでではないか。
そんな猛暑の中、「山頂はなぜ涼しいか」という本を読みながら待っていると、二人が到着した。
東京ビックサイト、というか、その周辺は、なんだかシャフトの作画の中に居るような気分になる。延々と続いている動く歩道と図形的な窓や柱、そして広場に突然現れるでっかい明朝体の「花」の文字のオブジェ。まさにシャフトの世界観のようで、最近「まどマギ」を観てハマり、本編のみならず外伝までも完走したばかりの私は、テンションが上がった。
昔も恐竜展なんかで度々訪れていたはずだが、久々に来るとやはりインプレッションは違う。当時はシャフトなんか知らなかったし。
そんなこんなで現地に到着。私は右も左もわからないので、ただただその先輩についていった。ちなみに入場券に関しては、先輩が既に招待券を発行してくれており、その招待券の画面のQRコードを受付で機械にかざすだけで無料で入ることができるらしい。とてもありがたい。
では、その受付を済ませて、展示会に入ろう!という時、事件は起きた。
たまたま私が並んでいた列が早く進み、最初に受付をするのは三人のうち、私だった。
1ステップずつ操作をしていくタイプの機械で、まず、バーコードを読み取り、職種を入力し、それから名刺を機械の差し込み口に挿すように要求された。
名刺…?なるほど、持ってないけど、要は何者かがわかるものを入れれば良いのかな。
私は財布から徐に学生証(カードみたいになってるタイプのやつ)を取り出し、機械の差し込み口に挿した。
ウィーッと音がして、学生証が機械の中に消える。
それから横に置いてあるプリンターが、職種:その他 という文字と、私の学生証の表面が印刷された紙をぺっと吐き出した。もちろん、学生証が出てくることはなかった。
「あれ…すみません、ここに学生証入れちゃったんですが、これ出てこないんですか…?」
そう慌てて機械の奥に立っているスタッフに尋ねる。
「ちょっと仕組み上出せないことになっていまして……」
「そこをなんとか、なりませんかね…?」
「なんとか、なりませんねぇ……」
その後、二人の元へ戻ると、既に二人は名刺を持参していない人用のカードに記入を進めていた。二人に尋ねたところ、学生証の発行には1000円かかるらしい。「1000円の入場料を払ったって思えば良いんだよ」と先輩にありがたいアドバイスを頂いたので、展示会は、そりゃあもう、楽しんだ。資料もいっぱい貰った。
その展示会に触発されてその後日にblender(無料で本格的な3Dモデルを作れるオープンソースのソフトウェア)を勉強し始めたりもしたが、その話はまた別の機会にしたい。
だがそれでも自らの愚行による心の穴は完全に埋まらず、帰り際にその近くにある葛西臨海公園にふらっと立ち寄り、バードウォッチングスポットを周り、鳥ではなく石垣に居る蟹たちと戯れるなどをして心を癒した。
それから一週間が経ち、学生証再発行の申請をし、大学の事務局のようなところで、無事、1000円の証紙と引き換えに学生証を受け取ることができた。あまりにも間抜けなエピソードであるため、紛失理由の欄に記入するのがすごく嫌だったが、正直に「名刺と誤り、機械に挿入」と書いた。
再発行できた今思えば、学生証でよかったのかもしれないとも思う。もしその日私が学生証を忘れていき、保険証を挿入してでもしたら……と思うと、それは本当に、身の毛もよだつような話になってくる。まさにこの時期にぴったりである。
ともかく無事学生証をまたこの手に戻すことができてよかった。自分の中でずっと蟠っていた一つの懸念事項を解消することができて、その日はるんるんで帰宅した。そして、気心知れている友人には笑い話として伝えるとしても、この間抜け話は墓まで持っていくぞ、という気持ちであった。
そして再発行から数日後、物語は冒頭へと戻る。
茶封筒の宛先は自分、送り主は東京湾岸警察署。
絶対あれじゃん。
中に入っていた紙の内容を確認すると、案の定、落とし物(学生証)を預かっているから、取りに来てくれという通知だった。
再発行したばっかなのに……
まあ、勿論もう受け取る必要はないため、このままスルーしてしまっても良いかなとも思ったが、送られてきた紙に書いている内容を見る限り、取りに行かない旨を連絡した方が良さそうである。
紙を確認しながら電話番号を入力し、通話ボタンを押す。
呼び出し音が鳴る。
──繋がった。
「もしもし。たんたん麺大好きマンと申します。」
それから私は要件を伝え、紙に書かれていた担当の人間に繋いでもらった。
「少々お待ちください。」
無機質な電子音の「エリーゼのために」が部屋に鳴り響く。その「エリーゼのために」には伴奏はなく、電子音の単音のメロディのみであった。
そのなんとも言えぬ不気味さが、原曲以上の悲壮感を漂わせていた。
尾張
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