【随想】新聞を読まなくなった訳

 ここ数ヶ月ほど、ちょっと試していることがある。それは、「果たして、何ヶ月新聞を読まないでいられるだろうか」という実験だ。きっかけは、日本経済新聞の駅売り価格が今年から一六〇円になり二〇円値上がりしたこと。昨年まで、自宅では値段が一番安い東京新聞を購読し、朝、駅売りの日本経済新聞を買うという、実質二紙を毎日読んでいた(家人が読みたいというので東京新聞の購読は続けている)。
 ただ、自らの新聞の読むパターンを振り返ってみると、すべての部分に目を通すのではないし、多くは「見出し」に目を通す程度。記事まで読んでいるものはほんのわずかしかない。「見出し」だけなら、インターネットの情報サイトや極端なことを言えば電車の吊り広告からだって手に入れることができる。
 最近、面白いアンケートを見つけた。20歳から49才に聞く新聞を読まない理由を取り上げたものである。新聞は年代が低くなるほど読んでいる割合が減少し、20代前半では約3人に1人。45才から49才で半数前後だという。周囲で「最近、新聞を読む人が減ったな」というわたしの直感を裏付けるデータであった。
 しばしば、こうした若者の「新聞離れ」の理由に、「活字」嫌いをあげることがある。しかし、そのアンケートによれば、若者は活字が嫌いなわけではない。むしろ読むのは好きで、ただその対象がブログやフリーペーパーを読むことが多いのだという。また、書籍や雑誌については20才から49才までの間に有意な差は見られなかったそうである。しかし、新聞は違う。どうも、若者の「新聞離れ」を「活字離れ」のせいにはできないばかりか、何か構造的な要因があるのではないだろうか?
 新聞を読まない・買わない理由としてそのアンケートにあげられていたのは、順位の高い順に、(1)「料金が高い」、(2)「読むのに時間がかかる」、(3)「ほかのメディアで事足りている」、(4)「ゴミが増える」、(5)「よけいな情報が多い」の5つであった。いずれも、相互に関連しあっているわが国の新聞の構造的要因だと思う。料金は消費者の求める情報が出ているか否かにかかっており、現状は消費者の求める情報を提供し得ていないということであろう。新聞の品質や内容といっても、「マス」メディアである限り、多くの消費者の意向を受け入れ一般的な情報を提供するには、相応のたくさんの情報を掲載しなければならない。しかし、それでは「読むのに時間がかかる」し、「よけいな情報が多い」と言われてしまう。そこで、情報を効率的に手に入れたい消費者は、それぞれの目的に特化した「ほかのメディア」に走る。
 いまの消費者は、自分の望むときに必要な情報を取りにいける環境を手にしているわけで、そのときにその目的に特化した情報は必ずしもマスメディアたる新聞によって提供されているわけではないということでろう(2010年3月5日記)。
 

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