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21/04/24:計画書、白紙に戻る

2年間の研究計画書を提出しないといけない。

本心を言うと、そんなもの書きたくない!
私はのらりくらり行き当たりばったりで、きままに制作したいんだ!
言葉に責任を持てないんだよ〜!
という気持ちだが、出さないと単位が出ないので無理くり書く。

後々面倒なので大枠の概要を書いて先生に見てもらうことにした。

テーマは「アートによるコミュニケーション」
長ったらしい文をそれらしく書くのが得意なので何とかそれなりになった。

その後、先生にアポを取ってちゃんと話を通す。計画書を見せて説明しなければならないのだ。
でも、その先生が怖い!
理不尽な事はないし理解ある方なのだが、言葉が鋭いのだ。
自分の信念がそのまま言葉になっている。何にも包まれていない剥き出しの言葉。脳から直接発されているみたいに、濁りがない。

先生は合理主義なので、ぬるぬるとした結論が見えない私の喋り方が嫌いなようだ。
自分の作品のことを聞かれると、すぐ圧迫面接みたいな雰囲気になる。
自分の思想を口頭で伝えるのが苦手なのもあり、空気にたまらず私は泣いて先生を困らせてしまった。
言葉にできない悔しさと、伝わらないもどかしさが苦しい。

先生はそんな私にちゃんと伝わるよう丁寧に話をしてくれた。
「アートがコミュニケーションなんて当たり前の話。そんな前提の話をわざわざここに書く必要がない。」

たしかに、私は割と外側の話をしてしまう。
アートとは、とか、アーティストとは、とか。皆各々自分の追求すべき分野を研究しているのに、未だ踏み込めずアーティストぶることだけ上手くなってしまった。
私はアーティストだ!と誇示することばっかりで、作品も完成度ばかりに集中して、中身が伴ってなかったなと感じる。

また、先生は私が写真だけで制作することにも否定的だし、私が一貫性なく制作を行っているのも指摘する。
今の私の存在はほとんど全否定に近い状態だ。
本当になんで外部生の私を院に入れてくれたんだとも思う。

思えば私は、川の流れにただ身を任せる笹舟だった。気の赴くまま、周りの環境によって方向を変えながら制作をしてきた。

でもそれは作家として脆い。

今までを否定するつもりはないし、これからも私はゆらゆら揺られて不安定な制作だとは思う。
でも笹舟ではなく、自分がオールを漕がなければならない。行き着く先がどうであれ。

制作は自分を開示することなのだから、アーティストぶるような主題に拘らず、自分の興味ある個人的なものをいかに伝わるよう提示していくか考えなければならない。

先生は怖いけど正しい。先生の美術理念に共感するから、出会えて良かったと思う。
そして先生は一年ドイツに研修に出る。
先生がいない間に私は更に飛躍できたら、と思うが、やっぱり気持ちだけが先走ってしまっている。

研究計画書、どうしようかなぁ...

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