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報道の自由と編集の自由は同義なのか

毎日投稿19日目、とうとう明日で20日です!信じられません!

さて本題です。

何を報道してもいいというのは、どう報道してもいいというわけではない。と私は思う。

自分の文脈を形成して、自分の意見を発信できる土壌を作って、自分の意見を発信する著名人の方々。しかし、大手のメディアに文脈を再構築され、自分の発した言葉と自分の見た目ではあるものの、まったく別の情報として世間に届けられる。そんな著名人の姿はとても不憫だ。

「報道の自由とは?」

高校生の頃、私はそう疑問に思った。

中学生までの私にとっては、世界の情報を入手するツールはテレビしかなくて、テレビから受け取る情報がすべてだった。

しかし高校生になってスマホを手にし、情報の民主化を肌で感じるようになった私には、編集マシマシ刺激マシマシのファーストフードインフォメーションよりも、編集前の新鮮な生情報の方が興味を引く対象になり、刺激を最適化されたはずのファーストフードインフォメーションでは、心が胃もたれを起こすようになった。

それ以降テレビを見る時間はめっきり減った。

テレビの発する情報が良いとか悪いとかではなく、単純に味付けが好みではなくなったのだ。そう、揚げ物を重たく感じる年になってしまったのだ。

そして、文脈を切り取る編集の仕方をしている報道は、コンテンツをわざとローコンテキストにしている。(コンテキストっていうのは日本語で言う文脈。共感の深さみたいなものです。)誰にでも受け入れられる最大公約数的なコンテンツの作り方は、情報取得メディアの選択肢が増えた現在においては、致命的なミスだと思う。

とはいえ、テレビコンテンツのクオリティはすごく高いとも思う。ただ同時に、目的設定がミスってるんだろうなと思う。間違った努力の仕方というとすごく偉ぶった言い方かもしれないけれど、完成度の高い間違え方であるのは間違いないと思う(笑)

今後私はテレビを見るだろうか。少なくとも、味付けが変わるか、あるいは自分好みの味付けができるようになるまでは見ないような気がする。

。。。完全に話が脱線しました(笑)

というか、最初っから間違った方向に発進してた気がします(笑)

何はともあれ、自分の発した情報を悪意のある形で編集されるのは嫌ですよねって話と、編集で手軽さを最適化された情報コンテンツはスマホの中に既に存在してるわけだから利便性でスマホに劣るテレビが情報コンテンツで戦うのは難しいんじゃないのかなって話、でした!

。。。

あ、いや、ほんとのところをいうと、ファーストフードインフォメーションは心が胃もたれするって言いたかっただけなんです。。。

その表現を書きたかっただけなんです。9割余談です。失礼しました。。。

おあとはよろしくないですが、しーゆーねくすとたいむです。

最後までお読みいただきありがとうございましたー!!

それでは~✋

読んでくださりありがとうございます! 学生のうちに起業したいなーなんて思ったりしてます!! 絶賛勉強中です!!