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モノとともにある思い出が嫌すぎて捨てたい話

モノは悪くない。

全くその通りである。

実際、自分が今所持しているモノが全て新品未使用の商品として販売されていたとすると、その大方は自分の目に魅力的に映るだろう。

ただ、いい意味でも悪い意味でも、モノには「思い出」が付きまとってくるのである。

例えば、

自分1人で見に行って、とても面白かった映画の半券。
これはいつ見てもいい思い出だし、嫌な気持ちにならない。捨てても支障はないが、捨てようとも思わない。見返しては懐かしい気持ちになり、心がほっこりする。

別の例をあげると、一緒にいると恥ずかしいような、一緒にいるところを友人に見られたくないような知られたくないような知人と出かけた時に購入したアクセサリー。
上記の半券と違って、いつ見ても「いつ捨てよう」と思ったり、苦い気持ちになったりするのである。なるべく使いたくないし、出来るだけ早く捨てたい。


この両者の違いは

いったい何なのだろうか。
検討を進めていこうと思う。

自分の意思で購入している以上、モノの価格に対するデザインや機能性等を気に入っているのは間違いない。
ただ、そのほとんどは購入時に、一緒にいる以上、頼んで言ってもらった訳ではないが、知人が「これが似合う」や「いいと思う」と何かしら自発的に言ったものなのである。ただ、知人がそう言ったから購入したわけでは全くない。仮に何も言わなかったとしても、その場に知人は一緒にいたのである。
自分とモノの出会いからその知人が抜け落ちることは無いのである。
そのモノを見るたびに知人との思い出までもが心に浮かんでくる。決して思い出したいわけではないのに。


嫌なのは?

このように書いている以上、自分が知人に対してよい感情を持っていないことは伝わるだろうが、自分と知人はどのような関係性だったのか。

自分は知人が嫌いだった。
出かけたりするようになった頃には、出会ってから5~6年経っていたように思う。
しかし、最初から、生理的に無理だった。
受け付けなかった。
気持ち悪くて、近づきたくもなかった。

それはずっと変わることはなかった。
今でもそうだ。
頭に知人を思い浮かべるだけで反吐が出そうになる。
思い出したくもない。

それなのに自分には、この類の知人が数人いる。というか、いた。
今ではもう知人ですらないと勝手に思っているが。
最初から直感で嫌だとわかっていたのに、なぜ彼らと関わってしまったのだろうか。


その理由はもう、わかっている。
自分が嫌いだったのだ。


忘れたい。

上記のおおよその出来事は2~3年前のことである。
今はこれをnoteに書くことで、過去の嫌なことを昇華させ、乗り越えようとしている。

つまり、まだ完全には過去の記憶という悪魔の支配から抜け出せたわけではないのだ。
ただ、時間が解決してくれると言うように、このことで気分を害する回数は当時に比べてものすごく減った。


自己肯定感の低さ

自分は間違いなく自己肯定感が低い。低かった。
大分改善されたとは思うものの、未だに常人の3分の1ほどしか持ち合わせていないように思う。

こんなエピソードがある。

小学校の入学祝いで買ってもらったデスクの下でうずくまる6歳の自分。
首を覆う服を何枚も重ねて着用し、できるだけ息を吸わないよう、気管を圧迫していた。
そして、
「自分なんかが生きていてごめんなさい」
「この世に生まれてこなければよかった」
「最初から何もなかったように消えてなくなりたい」
と、自由帳に緑の蛍光ペンで泣きながら書いていた。
自身の存在意義が分からずにひとりでもがき苦しんだ後、母のもとへ行き、懸命に謝り、訴えた。
「こんな子供でごめんなさい」
「自分じゃなければよかったのに」
「どうして自分は生きているんだ」
「このまま生きていていいのか」
母は困惑していた。

幼稚園年長時の話

ほんの30分前まで元気だった子供が自身の存在を受け入れられずに泣きじゃくっていたのだから困惑するのも無理はないだろう。

しかも6歳。
我ながらやばい子供だと思う。
6歳の時点でもう自己肯定感はほとんどなかった。
自分は容貌、内面ともに他の園児より劣っており、学をつけなければならず、頭で負けたらこの先は生きていけない、と本気で思っていた。

家庭環境には本当に問題がなかった。
父も母も愛情をもって育ててくれた。本当に感謝している。
度の超えた教育を強いることもなく、放っておくでもなく、何も不満はない。

それにもかかわらず、自己肯定感が非常に低かった。

6歳でこれだからその先はもっとずっと低い状態で続いていくのであった。

だが、未だにどうしてこんなに自己肯定感が低くなったのかがわからない。
ひねくれた性格のせいだろうか。はたまた見栄っ張りなせいだろうか。

幼稚園では、ひらがな、カタカナ、数字が書けただけで褒められた。
馬鹿にされていると思った。

キラキラのおもちゃが好きだった。
でもそれはほかの"かわいい子"たちのものだった。
それが悔しかった。
ある日、お気に入りのおもちゃすべてを独占して所有欲を満たした。
ほかの子が何と言おうと渡したくなかった。
その一方で、こんなおもちゃごときにこだわっている自分がちっぽけでみじめだと思った。
次の日からは見向きもしなくなった。

これらは幼稚園時の思い出である。
覚えているのは、怒られたこと、嫌だったこと、つらかったこと。
自分の発言を思い出して未だに胸が苦しくなる時がある。

話がそれた。
とりあえず、自己肯定感が低い。
原因は不明。


自分を好きになれない

自分が嫌いだから、自分の嫌がることをしてもいいと思った。
自分が嫌いだから、自分をないがしろにしてもいいと思った。
自分が嫌いだから、自分を傷つけてもいいと思った。

ここで、本題に戻れる。

知人と関わること、共に過ごすことは自分をいじめる手段でしかなかった。
自分の嫌いな知人といることで、自分には自分の好きな友人たちといる価値がないのだと資格がないのだと思い込ませた。

今となっては、嫌いな知人と過ごすことほど無益なことはないと言い切れる。
大切な時間やお金、家族や友人たちと過ごす機会、相手と自分を大事にする心を失ってしまったのだから。

その時間で大事な友人に向き合っていたら?
その時間で勉強していたら?
未来は違っていただろう。
自分の夢をないがしろになんてしなかっただろう。

自分を受け入れてあげなければ、前には進めないみたいだ。


後悔はある。

ここで、後悔なんてない。とかっこよく言えればよかった。
しかし、そんなに割り切れていない。

ただ、自分の嫌いな知人たちに対して申し訳ないことをしたという気持ちは全くない。
嫌いなものはやはりいつになっても嫌いだ。


決別

幼稚園時の記憶までかなり詳細に残っている自分だ。
ちょっとやそっとのことじゃあモノとともにある嫌な思い出を乗り越えることはできないだろう。
とりあえず、メルカリに出品してみたが売れないので、そろそろ捨てようかと思う。手元にあっては悪い気のようなものが充満する気がしてならない。


これから

どのようにして自分と向き合っていこうか。
まず、自分を大切に、大事にしてあげよう。
微妙な関係のあの子に献身する必要は全くないのだ。
自分を、自分だけを大切にしてあげたらいい。
自分を大切にすることが、自分の大切な人たちを大事にすることにもつながる。無益有害な関係の人ではなく、自分にとって大事な人たちに時間を割くことができるようになる。
時間は有限。

新しい自分、はばたけ!


おしまい

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