相手を理解する努力を怠ったらお前は不幸になるぞ『主婦をサラリーマンにたとえたら想像以上にヤバくなった件』

やあ、僕だよ。飽き性ちゃんだよ。
もしも部下が乳幼児になったら、どんな状況になるのだろう。
そんな一枚漫画をいつかどこかで見たなと改めて検索したら、本が出ていたようで気まぐれなネットサーフィンもたまにはよいものだね。

専業主婦なんて楽勝だよ」なんて表立って言わなくなってきた世の中だけれど、心の奥では「何で本当のこと言っちゃいけないんだよ」って思っているそこの君。
そうそう、僕もずっとそう思っていた。でもまあ肩ひじ張るなよ、いったん深呼吸してさ。
僕の記事でも楽しんでいきなよ。ゆっくりカウチソファにでも腰かけながら、ね。

本書あらすじと感想

『主婦をサラリーマンにたとえたら想像以上にヤバくなった件』河内瞬
kindleunlimitedで読了。乳幼児を抱えながらワンオペ家事をする「シュフ」の労働環境について元会社員の視点から解説した本である。

家族分の家事を淡々とこなすのもしんどいのに、四六時中目が離せない(あるいは目を離してくれない)乳幼児と対面する育児が合わさると「要するに、無理」なのだと著者ははっきり断言する。

子どもを外で叱るとき、周りに叱られないために叱っている
母親がヒステリーなのではない。
一日中子どもを相手にすると男女問わずヒステリーになるのである

この引用文を見るだけでも本書が伝えたい「無理度」が伝わるだろう。
少し前に「見えない家事」なるフレーズが流行ったが、まさにそういった想像しづらい「シュフ」の仕事内容や労働環境について分かりやすく記述している一冊。

僕も少し前までは家事のほとんどを夫に任せていた経歴がある。この専業主婦の期間になるべく家事育児のスキルを獲得し、主体的に家庭運用をしたいなとちょっとだけやる気が出た。

一番大切な人が一番大切な時期に見て見ぬふりをしてはいけないのだ。

きっとここまで読んでくれた君なら大丈夫だろうが、本来本当にこの本を読むべきは「昼間何してたの?」とか言っちゃう仕事一筋のお前である。
どうせ大した仕事してねーんだからこの本でも読んで自分の無能さを自覚しろ、と僕は強く思うよ。

育児怖えよ

記事にはしていないが、『今日からしつけをやめてみた』(あらいぴろよ著、柴田愛子監修)も読んだ。
柴田先生曰く、発達段階に沿わない「あいさつ」や「マナー」を子どもが行うのは「調教」の賜物であり、「しつけ」とは別物だとのことだった。
ある程度の年齢になるまでは「動物」だということなのだ。

僕はこの話を読んでぞっとしつつも、ほんの少しほっとした。

ぞっとしたのは子どもに「大人」であることを強制する空気が世間にあること。事実、僕自身も無意識のうちに乳幼児を「大人」のように扱って、電車の中で喚く子どもを放置する母親に眉根を寄せたことがあることだ。
幸せな「育児」をしているはずの母親が子どもを見ずにスマホを見ているなんて、と思っていた。

人の形をしているから、想像が及ばなくなる。
「育児」と呼ぶから、想像が及ばなくなる。

そんな時、声をかけるようなコミュニケーション能力は発揮できないかもしれない。でも、うるさいと思うなら眉根を寄せずに車両を移動すればよかったのだ。
もしかしたらその母親は疲弊しきって子どもの声にも反応できないくらい追い詰められていたのかもしれない、とその可能性すら考えない視野の狭いやつが眉根を寄せる権利はないのである。

動物なら僕も飼育出来る

ほっとしたのは乳幼児は人の形をした「動物」だということだ。
この視点は僕を大いに慰めてくれた。大型動物の経験は少ないが、鳥類・魚類・哺乳類と飼育してきた僕である。
手前味噌ではあるが、飼育者として導き出した飼育のコツを僕は持っている。

飼育に行き詰まる原因は概ね「観察」と「環境整備」を怠ったからだ。

「観察」と「環境整備」を怠ると、動物はすぐ死ぬ
人ではない生き物は自然界に存在しないものを理解出来ない(例えば誤飲や誤食を引き起こす)。
理解出来ないものに無理やり当てはめようとすることはそれこそ「虐待」にあたる。
馴致や調教もまずはこの大前提をクリアしないことには上手くいかないし、動物の幸せは人間の幸せとは異なる
大体、動物のことを理解しているなんて断言する飼育者などいない。

理解出来ないからこそ「観察」が必要だし、その観察によって得た事実を踏まえて「環境整備」していくのが飼育者だと僕は思っている。

もしもこのメソッドが乳幼児の養育に応用できるのなら、僕はいくぶんかほっとするし、人見知りをしなくて済むのかもしれない

未経験のものは理解しようとする意志が肝要だ

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」。
また僕の大好きなビスマルクさんである。
僕はいつだってぐしゃぐしゃなのだが、家事育児が未経験だからって自分のパートナーが背負っているタスクの量を想像出来ないほどの愚者でないと胸を張って言えるようになりたい。

そのためには未経験のものであっても理解しようとする姿勢や意思が重要なのだと思う。
分からないなら分からないと教えを乞えるように、無知であることを恥じるように、僕はなりたい。

理解は終わりがない
例え同じ経験をしたとしても、別の人物、別の時代、別の環境で得られるものや理解出来たものがまったく違ってくる。

理解出来ないからそれについて見ないふりをするなんてもっての外である。
理解出来ないからこそ、自分の物差しをたくさん持つようにしたい。
誰かのつらさや自分のつらさを理解しようとする姿勢がなければ、自分も周りも幸せになれるわけがないと僕は思っている。

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