保守派の人はやたらと戦前と戦後の「断絶」ないし「切断」を意識化されることで、主体性を取り戻そうとしてる。しかし、それでは失敗してしまうのではないだろうか。というのは、「切断」を意識化して主体性を取り戻すのは正直マッチョイズムまるだしであって、これについていける人は極少数に限られているからだ。それよりは戦前に生きていた人たちと戦後に生きている人たちに両者共通する物語を発見し、それを掘り起こすことこそ必要なのではないだろうか。 例えば、NHKのファミリーヒストリーは
言葉という放物線の微分 近似値の積分に業を煮やすインテリども 大海原に言葉の板を差し込む愚行 そんなやわな板じゃ木っ端微塵さ 生まれ落ちたときから敗北者 そんなやつをありがたがっているおめでたい人々 お前に脱獄の地図を手渡そう さあ、今こそ虚飾の積み木を蹴飛ばせ 監守には気をつけるんだぞ
身体が落ちていく 大気圏に放り出されてしまったみたい ああ、果てしなく堕ちていく 獣の体臭が私を狂わせるから 焔のように熱い氷が身体を溶かしてしまう 窒息しそうな太陽にH2を吹きかけて 私の身体は燃え上がる
もう心が錆び付いているから 渇ききった土壌に種を蒔いても 不毛なものさ 二度と作物の芽はでない 豊穣だった僕の心はもうない 戦火で土地は汚されたんだ 君は僕に触れてはいけないよ きっと後悔するから もし、僕に触れたなら君の心が瞬く間に漆黒に包まれる だからさようなら 罪深き僕の魂を地獄の焔で蒸発させるまで
第1章 戦火の青春 隆司へ 元気にやっていますか。きっと大学生になって、充実した日々を送っているだろうと思います。 実はこの前、主治医からもう命は幾ばくもないと言われました。覚悟はしていましたが、さすがに胸にこたえます。 そんなこともあって、何か形になるものを遺したい。そんな思いがこの頃あふれてきました。そこで、ひとつ人生譚でも書いてやろうという気になって、今このノートに書きつけているところです。 きっと隆司はなぜ自分にだけこんなも
階段が、 鳥居が、、 田園が、、、 記憶の中の「少年」にとりついて 真夏の熱風が、 大粒の汗が、、 爽涼の川が、、、 立て掛けた写真のなかに 吸い込まれる 昔日の「少年」はもういない この冷たいコンクリートの雑踏で 彼は永遠の「他者」になる
朝日にココロを透かして 夕焼けに情(こころ)を燃やし 星空に心を静めた 空に消えた先人 きらびやかなネオン 路地裏で希望と絶望が交錯する 生死の交差点で二度と出会わない人々 薄紫の空に陽光が射しこむ 死んだ夜に別れを告げ、朝日に手を翳(かざ)しながら、雑踏に消えてゆく
PM11:59 あと1分で明日だね 今日はあの秒針に消される ちょうど昨日がされたように 明日を望むために今日を殺害するなんて物騒だね その明日も消される運命 殺戮の連続が時間さ 時間は残酷だね
春は出会いと別れのイベントが同時にくる季節だ。特に学校では学舎から巣立つ人、学舎に入る人が交錯し、喜びと悲しみ、不安と期待が入り交じる。 僕は昨年、大学を卒業して、学校という場所から遠ざかっている。だけど、学校という場所は自分の中にどこか息づいている気がする。それは見る夢のほとんどが学校が舞台だからかもしれない。僕は学校を求めていないはずだが、無意識のうちに学校を求めているせいかもしれない。でも、学校という場所にそんなに良い思い出はない。 むしろ、嫌な思い出の方が多