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ショートエッセイ:とはいえ「意識の低い」Vtuberの世界であってほしい。

 最近「伸びたい!」とか「勉強しなきゃ!」とか言い出したので僕がいわゆる「意識高く」Vtuber活動をしているように見えるかもしれませんが、Vtuberの世界はいい意味で「意識低く」できる場所であってほしいと思っています。

Vtuberの世界は広い

 「意識が高い」中でやれば確かに良質のものを提示できると思います。それ自体はいいことなのですがその分できる人はそれなりのリソースを持っている人に絞られてくるでしょう。最近、Live2Dのアバターの製作費に100万円以上かけて活動を開始するみたいな話が複数ありました。そういう方がそれでやっていくのは結構なことなのですが、極端な話そのレベルまで水準が引っ張られたら本当に僕も含めてできなくなる人大量にいるよなと思うのです。
「意識低くできる」ということは、それだけ「多くの人に間口が開かれている」ということだと思うんですよね。その広さがものすごく大事なことなんじゃないかと思います。
 Vtuber、特に私のような個人Vtuberを見ていると本当に色んな人がいらっしゃいます私はアンテナが頭に刺さった人間ですが、ロボットもいますし、妖怪も神もいます。カフェの店員もいればBARのマスターもいますし、おじさんもいれば少女も少年も幼女もいます。作家もいればイラストレーター、作曲家、歌い手もいるし、法律、薬学、生物学など様々な専門家もいます。
 この多様性は本人から透けてくる、あるいは隠していない「中の人」についてもそうです。性別、世代、地域、職業、暮らし向き、言ってしまえば社会階層などもばらばらです。会社の役員をしている人もいれば学生もいますし、育児をしながら活動される主婦の方もいますし、公共料金を払うのに必死な人もいます。私と同じように精神疾患を持っている方もいますし、体が弱い方もいます。
 そのように本来なら会うことすら考えられないぐらいばらばらなバックボーンを持った人々が「Vtuber」という共通項を得ることで、たとえばゲームやトークでコラボをしてみんなで楽しめる、互いに共感をしあえるというのはものすごく素晴らしいことだなと感じるのです。コラボ配信の際、もちろん配信自体も楽しいのですが私は前後の雑談が本当に大好きで、違う背景を持っている人が絡み合って生まれる独特のバイブスに本当に心地よさと楽しさを感じます。そのせいで雑談伸ばしがちなので気をつけなければと思いますが…。
 このように多様性のある人々が一つの「Vtuber」という称号の元に前向きに関われるというのは本当に希少なことだし、個人的にはある種の希望さえ感じています。

「見てもらえる」「聞いてもらえる」

 私が尊敬していて、たびたび引用させてもらっているRHYMESTERの宇多丸さんがヒップホップ、日本語ラップの意義の一つとして「それまで語る手段を持たなかった人々に語る方法を与えた」ことをあげていました。
 Vtuberにも同じような意義があるかもなぁ、なんて考えたりもしています。
 何かがしたい、自己表現をしたい、でもどうしてもわからないというのは多くの人にとってありうることでしょう。その時にVtuberというフォーマットに出会い、それに乗ることで姿を「見てもらえる」、言葉を「聞いてもらえる」、そのことに僕も含めて救われているところがあるのでしょう。だからこそ、「誰でもできる」ものになっていってほしいですし、あまりハードルがあがるようなことにはならないでほしいな、と。
 実際Vtuberには本当に色んな人がいて、正直一般常識とかから強めに逸脱するような人もいないでもないし、いわゆる「病み」的な発言をしたり、明らかにそれで誘い受け的な慰めを求めている人も見たことあります。トラブルの話も毎日のように聞こえてきます。言うまでもなくそれで苦労など受けている人はいるわけですから褒められたものでは全くないですし、批判も当然です。ただ、そういう人には注意しつつもそれでも包摂するような寛容さがある方がきっといいんじゃないかなと思います。そういうVtuber界の方がみんなのびのびとやりやすいんじゃないかな、と。少なくとも僕はみんなが相互監視的にマナーやアティチュードを過剰に高めていくよりはやりやすいだろうなと思っています。だから、あんまり他のひどいVの晒しとかしなくても…、とは感じています。

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