『とある庶民の不毛な日常』

 冬の日。外出から帰宅する。洗面台の鏡を見る。鏡に映る自分の姿に違和感を覚える。どこか様子がおかしい。
 映っている自分の姿を観察してみる。最近乾燥してきたからか、肌が少し粉吹いている。疲れてはいるが目はぱっちりと開いている。ぱっと見は、いつも通りだ。
 ところがだ。ふと、指で頬に触れたその瞬間、決定的な違和感に気づく。触覚に異常を感じたのだ。触覚が鈍い。
 しかし、感覚が完全に麻痺しているわけではないらしい。外からの帰宅から1、2分だ。指先は冷え切っていることは確かだ。それに鏡に映る私は、指の冷たさを感じ取ったがゆえに、顔をしかめて即座に指を顔から離したのだ。私は、その動作をする私を鏡越しに確かに見た。
 であるのにも関わらず、一連の動作そして文脈はそのままに、「冷たい」という情報だけをミュートしてしまったような感覚だ。
 不可思議に思いながら指を眺める。そして関節を多様に動かしてみる。問題なく滑らかに動いている。そしてそこで第二の違和感に気づく。指をたくさん動かしているにも関わらず、何も感じない。というより、「指を動かしているという意思」が希薄に感じられる。
 もちろん人間は、自分が自分の体の一部を動かすことに強い意志を持つことは少ないだろう。しかし、それでも分かる。脳があり、首があり、肩があり、前腕があり後腕があり、手、そして指。その一連のどこかでブッツリと感覚が途切れてしまっているかのようだ。
 やはり、先ほどと同じように、意識を除いた物理的な自分の体は、しっかり人間工学と科学、医学そして物理学に基づいている様子である。強く手を握っていると、次第に筋肉の疲労により手から力が抜ける、という様子が見られる。
 それでもその感覚は、私の意識にはほとんど伝わってこない。体に疲労が溜まっているのか?先ほどから少しぼうっとしている。
 また鏡に目をやる。私が映っている。しかし違和感は抜けない。また注意深く鏡の中の自分をみる。そこで私は次なる違和感に気づく。
 その違和感というのは、とても言葉にしづらいものであった。強いて言うのであれば、こう、
「私は、見ているのか?」
といった——いや違う。確かに見てはいる。私は私を見ている。だが、ああ、言葉にできない。無理やり表現を探してみよう。
 私の体は、確かに鏡越しの自分を注意深く観察している。…そうだ。こういう感覚だ。というのは、
「私の意識は、『私の体は、確かに鏡越しの自分を注意深く観察している』と認識している。」
…といった具合で、そうだ、私の意識が、私の肉体を「俯瞰」している、といえばよいか。私は、不自然なくらい、自分を客体として意識できてしまっている。
 いやしかし俯瞰ともまたやはり違う。なぜなら、私の「私自身の観察」は飽くまで一人称視点で行われているからである。なのにも関わらず、先ほどから、様々な観点から物理的な感覚が伝わってこない。まるで、一人称視点の映画を見ているかのような——まるで私が、誰か「別の人物」の視界を通して、その人物の人生という映画、一人称視点で作られた作品を「観」ているかのようである。
 彼は外出から帰宅して、洗面台に向かい、顔を指で触り、指が冷たいので反射的に手を退け、そしてその手の関節をぐにゃぐにゃと動かし始める。そんな日常的な動作を——その人物は私ではないようだ——観察している。私は『とある庶民の不毛な日常』とでも名付けられた一人称視点映画の観客であり、登場人物とは全くの無関係である——作品というのはしばしばフィクションであり、実在する個人団体とは一切関係がない——一般人であるかのようだ。
 しかしその主人公であろう人物の指に注視すると気づくのだが、不気味なくらい見慣れている。乾燥ゆえのひび割れの位置にあまりに見覚えがある。洗面台も、私の家にあるものと同じだ。そして、鏡に映るその顔は、それがもっとも恐ろしいことである訳だが——「私だ」!この映画の主演は「私」なのだ!その認識が、この矛盾しているような混濁した認識が、『私』の身を震え上がらせる。
 『私』は、映画の主演である「私」を観ている訳であるが、『私』は飽くまで観客だ。ストーリーが観客にとって不可侵であるように、『私』は「私」の行動を制御できない。観ているのは紛れもなく「私」であるのにも関わらず、である。
 さらには、『私』はこの映画から目を背けることはできない。この映画の上映は主人公の瞳孔というカメラを通して行われる。そして『私』は今、この主人公の眼球の中にいる。席は指定席、移動することは許されない。
 『私』は、「私」の行動を制御できない。自分が自分の体の主導権を握れないと言う、えも言われぬ不甲斐なさ、悲劇、絶望!そしてそれら負の感情から目を背けることは許されない!その事実に私は恐れ慄く。観客である『私』は、指定席に座りながらただただ、どうしたらいいのかも分からず震えている。孤独感に似た切なさが全身を包む。
 映画の中の「私」は上着を脱ぎ、寝間着に着替えてからベッドへ向かい、寝そべり、電気を消して、瞼を閉じる。一人称視点の作品である。もちろん画面は真っ暗になる。まるで垂れ幕がかかったかのようだ。次に幕が上がるのは、「私」が目覚めた時である。
 瞼をいう幕に覆い隠された眼球という暗黒のシアターに一人取り残された『私』は、より深い絶望に打ちひしがれていた。どうにかして、『私』が主人公にならなければいけない。「私」のストーリー——つまりは人生である——の主導権を奪い、私を保証しなければならない。
 そんなことを考えているうちに、考え疲れてしまった。自身の現状への恐怖に疲弊した。意識がすっと途切れた。
 
 どれくらい時間が経ったのであろうか。垂れ幕が上がった。寝室のカーテンから漏れる朝日が、起きたばかりで眠い目に直撃した。ぎゅっと目を閉じる。…しかしその一瞬の不快感は、『私』にとっての不快感であった。そのことに気づいた私ははっとした。がばっと身を起こす。不快感を強く覚えたのだ。「私」が感じた不快感は、『私』と同期した。そう、私はもはや『とある庶民の不毛な日常』の観客ではなかった。私は安堵した。私の人生の主導権を、『とある庶民の不毛な日常』の主演の座を奪いとったのだ!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?