明確なビジョン?それともフワフワでいい?
明確なビジョンを持って目標に向かって突き進んでいきたい自分と、なんとなくそのときの状況に合わせてのほほんと生きていたい自分。両者の葛藤が常にあるけれど、どちらもバランスをとっていきたいなあ。
朝日新聞の4月10日の悩みのるつぼで、就活中の学生の「努力して有名大に入り、何不自由ない生活を送っているが息苦しい」という相談に対し、文筆家の清田隆之さんは、human beingとhuman doingの概念を上げていた。
beingとは、感情や欲求、価値観や生理的反応など、今ここにあるもの、否定しがたく存在しているもの
doingとは能力や資格、肩書や実績など、行為によって獲得したもの
と述べられていた。
現状の心地よさ、やりたいことよりも、将来のためのやるべきことを優先させてしまうことは、beingとしての自分を置いてけぼりにしている、というのだ。
明確な目標に向かって突き進んでいきたい自分と、ゆるふわで生きていたい自分。それはまさにdoingとbeingの考えに当てはめられるだろう。ただ、明確なビジョンを持つか持たないかによって、行動や思考は変わってくるかも。持っておくことに損は一つもない。実現するかどうかはプロセス次第。しんどかったらその都度、目標を緩く設定し直せばいいのだろう。
そうやってbeingとdoingのバランスをとっていこう。
例えば、私が大切にしているbeingに再生産労働=家事がある。
そんなに完璧にきれいにしたいタイプでもなく、掃除機もたくさんかけるわけでもないけど、水回りをきれいにしたり、汚れているところをふいたりするのは単純に好きである。全部の家事が好きなわけでもなく、嫌いなこともあるし、体調によってはしんどい、やりたくないと思うこともある。しかし、予定が詰まっておらず、気持ちに余裕のある時は一種の趣味、癒しの一つとなる場合もある。
しかし、何と言っても家事のデメリットは、時間がかかること、こだわろうと思えばいくらでもこだわれることである。「家事に何時間かけよう」とするのはなかなか難しい。「自分が納得いくまで取り組もう」となるから、時間に制限がない。そうなると、doingのための時間は減ってしまうし、beingの活動で体力的にも疲れて寝てしまう、なんてこともある。
それを、「怠けてしまった」と捉えるのか、
「充実していた、いい一日だった」と捉えるのか
によって、私の人生も大きく変わってきそうな気がする。
周りの人を見る限り、beingに重きを置いている人は幸せそうだ。
beingかdoingかでいったら、私もbeingに比重を置きたいタイプかもしれない。
もうちょっと自分に優しくなろう。でも、ビジョンはしっかり持っておこう。
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