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『真マジンガー衝撃!Z編』(2009)感想〜満たされない器に何も詰め込めず力だけが暴走した空虚なハリボテ〜

昨日、妙なやつとエンカウントしてしまったせいか、久々に今川泰宏監督の『真マジンガー衝撃!Z編』(2009)を見直してみた。
やはり私は基本的に今川監督作品は基本的に『機動武闘伝Gガンダム』(1994)以外は擁護できないというスタンスを改めて確認できた一作である。
本作のコンセプトは「真のマジンガーを産み出す」というのが今川監督の狙いだったらしいが、果たしてその目論見は成功したのであろうか?

答えは当然「否」!

これは何も本作をS(傑作)扱いしているしている某似非インテリ読書家の書評への対抗心ではなく、純粋にリアルタイム当時から本作を見ていて心底思っていたことである。
そも面白いとかつまらないとか以前にまず本作は「ロボットアニメ」ですらもなければ「エンターテイメント」ですらない、というのが率直な感想だ。
では何なのか?というと、端的にいえば「身内ノリが激しいだけの公式同人」であり、中身についてもっと突っ込むのであればサブタイに書いたように「空虚なハリボテ」でしかない。
正に似非インテリも書いている通り「大ボラ吹き」という今川演出が全て悪い方向に作用してしまい、時代と完全に乖離してしまった飲めや歌えのどんちゃん騒ぎに終始していた。

今川監督自身の作家性も含めて、私は本作を「反面教師」として何が良くなかったか?逆にいえば「Gガンダム」だけが何故例外的な作品となり得たのかを監督の諸作品との比較・検討も交えつつ語っていこう。


作品単体の絶対評価として

予防線を張りまくりの第一話

本作を比較する時に「話の辻褄が合わない」「結局謎だらけで投げっぱなし」といった意見も目立ったが、実は本作に関しては逆であり第1話の時点で既に視聴者に物語の結末を見せている
一見壮大で難解じみていそうな本作だが、核の部分はとても単純であり、身もふたもない事をいえば「兜甲児とマジンガーZのやらかしによってミケーネとの戦いが勃発してしまい、俺たちの戦いはこれからだ!」である。
後述するが、本作の話は決して何も難しくはなく、兜甲児とマジンガーZがよりにもよって十分な対策すら立てないままドクターヘルを打ち倒したためにミケーネとの地獄の戦いという大惨事が勃発してしまったのだ。
本作のアバン〜EDは全て最終回後の後日談という体になっており、本来であれば最終回で見せるべき結末を敢えて最初に見せて視聴者に違和感を抱かせ、本編でそこに至る道中を描くという歴代でも稀有な構成となっている。

だから最終話まで見ても「何も解決していない」というのは確かに「根本的な戦いの原因を何も解決していないので、兜甲児たちの世界が平和になっていない」という意味においてはその通りだが、未消化に終わった要素は実はほとんどない
今川監督はどうしても演出家として好き放題やる人という印象があるが、根っこはとても真面目で熱い人であり、大仰と言われる過剰なまでの外連味は全て本気で「かっこいい」と思っている純粋な感性がもたらしているものだ。
しかし、監督には「演出家」としての才能はあっても脚本家としての才能・センスは致命的なまでになく、「どうしてそこでそういう結論になるのか?」「え?実はこれ何も解決していないよね?」ということが目立ってしまう
それが視聴者からすれば「投げっぱなし」としか映らないのであろうが、本作はそう言わせないがための予防線として1話でいきなり結末を見せるという図式なのだが、その1話ですら何も解決していない。

今川監督はおそらく原典となる「マジンガーZ」をはじめ永井豪先生の諸作品を見て、既にグレートまでの物語が出来上がっているマジンガーをどう再構成するべきかを彼なりに考えたのではなかろうか。
そしてどうあってもミケーネ帝国との戦いを避けられないというのであれば、「俺たちの戦いはこれからだ!」なゴールを敢えて最初に設定しておいて、後はそこに向かう話にすればいいという寸法である。
その構造をわかってしまうと本作は別段難しくもなんとも無いのだが、本作の場合はそこに至るまでの道中の描き方が物凄く雑であり、見ていて楽しくも面白くもどんちゃん騒ぎを最後まで見せられているだけだ。
だが、わけてもその中で主要の原因をあげるとすれば、主人公であるマジンガーZと兜甲児の空虚さは歴代でも類を見ない酷さだ。

人間性が著しく欠如した「英雄未満」の兜甲児

本作が「身内ノリが激しいだけの公式同人」にして「空虚なハリボテ」でしか無い理由は色々挙げるが、一番の理由は主人公・兜甲児の著しい人間性の欠如である。
これは永井豪先生がお描きになっている原作漫画や「Zマジンガー」「バイオレンスジャック」はもちろん1972年の東映アニメ版やOVA「マジンカイザー」と比べても類を見ないレベルで魅力がまるで無い。
原典で見せていた「女好きのスケベ」「喧嘩っ早い」といった短所が鳴りを潜めて、原作の勇敢さや2枚目な格好良さだけが残った結果表面上の魅力以上のものが伝わってこない
私が思う兜甲児の魅力は女好きなすけべの部分があり、割とカットなりやすい喧嘩っ早さがあるが、いざという時の機転が利き仲間に対する優しさと思いやりが深い義侠心に溢れた青年だった。

単純な都合のいい「神にも悪魔にもなれるマジンガーZの器」というだけではなく、「彼だったらマジンガーZ」を任せてもいい」と思わせるだけの魅力があり、硬軟併せ持ついい意味での「熱血漢」であった。
それを今川監督はどんな解釈をしてしまったのか知らないが、その兜甲児の表向きのとにかくやかましく叫び仲間を大切にする熱血キャラだけが残り、失われたその性格の短所を埋め合わせる「何か」すらない。
そのせいで彼が「神にも悪魔にもなれる」ことに関して神妙に葛藤・苦悩する描写を描いたとしても何も伝わってこず、結果として何故彼はマジンガーに乗って戦うのか?というキャラクターの「芯」が見えないのだ。
しかも本作に関して事あるごとに祖父たる兜十蔵と錦織つばさという肉親がことごとく介入してでしゃばってくる為に、甲児が主体的に何かを決断して戦う場面すらが根本的に存在していない

これは徹頭徹尾悪い意味でそのように描写されており、結局のところはOVA「ジャイアントロボ」の草間大作の劣化版として縮小再生産されだけのことであり、原典にあったヒーローとしての魅力はまるで無い。
最後までまるで口癖のように「神にはなれないが、悪魔にもなりたくない」と言っていたが、「カイザー」までの兜甲児は「神」でも「悪魔」でもないが「英雄」もしくは「正義の味方」ではあった
しかし、本作の兜甲児は声優が赤羽根健治なのもあってか、「英雄」でも「正義の味方」でもない、精々が幼稚な正義感と力を暴走させただけの「チンピラ風情」というのが相応しい評価であろう。
少なくとも私が本作以前に見てきた魅力的な元祖スーパーロボットアニメの英雄としての兜甲児とは似ても似つかぬ別人28号であることだけは疑いの余地がない。

全く中身がないのに力だけが極度に暴走したマジンガーZ

そんなチンピラ同然の中身が空っぽな兜甲児に合わせてか、本作に登場するマジンガーZもそんな甲児そっくりのキャラクターとして描かれていた。
どういうことかというと、本作のマジンガーZは力だけが極度に暴走しており、ロケットパンチ・ブレストファイヤー・ルストハリケーン・光子力ビームといった代表的な武装しかない。
しかも空飛ぶ翼のジェットスクランダーもあっさり1話で破壊されてしまった代わりに出たのが十蔵博士が開発したゴッドスクランダーであり、最終的にはロケットパンチ百連発やビッグバンパンチまで出てくる。
要するに本作はゴッドスクランダー以外に武装を追加しない代わりに1つ1つの武器の威力を徹底的に強化した「力こそパワー!」とでも言わんばかりの武力に特化したマジンガーが誕生した。

結果として極度に力を暴走させただけのチンピラ破壊兵器が誕生してしまい、だから本作のマジンガーZは満たされない空っぽな器の状態で力だけが極端に暴走してしまっている
この力だけが極端に偏った本作のマジンガーZが更に自意識を持ち7つのチャクラを人間みたいに解放した結果生まれたのが自分以外の存在を認めないマジンガーZEROではあるのだが。
「神にも悪魔にもなれる」という言葉に象徴されているように、マジンガーZはそれ自体では空っぽな器でしかなく、兜甲児とジェットスクランダーがセットになることで初めて本物の「スーパーロボット」として完成する。
人の頭脳を加えたときにこそ人々に明るい未来・希望をもたらす絶対的英雄が原作から脈々と受け継がれてきたマジンガーの造形であるはずなのに、本作はそんなマジンガーの良さが悉く消えてしまっている

原作のマジンガーZが何故あれだけ様々な新兵器を追加して強くなったのかというとパイロットの兜甲児とマジンガーZが共に「未完の大器」だからであり、機械獣軍団との戦いの中で少しずつ成長していったのだ。
その点最初から「完成された器」であったOVA「マジンカイザー」は最初から出来上がっていたのでドラマ作りが難しかったのだが、それでも兜甲児共々「英雄」にして「正義の味方」ではあった。
本作はその点兜甲児が全くと言っていいほど成長しない為にマジンガー自体も大した成長を見せないし、どれだけ強力な兵器で敵をやっつけても単なる力自慢でしかないからその強さにまるで魅力がない
そんな危険なチンピラ同然の戦い方が最終的に兜甲児共々ラスボスを倒した結果としてミケーネ帝国との地獄の戦いという蓋を開けてしまう戦犯に繋がってしまった。

ただ出てきて馬鹿騒ぎしているだけの周囲の人物たち

そんな風に甲児もマジンガーZもただ状況に踊らされる形でただ暴れ狂うだけのチンピラとなってしまった弊害なのか、他の登場人物もただ出てきて勝手に馬鹿騒ぎをしているだけでしかない
今川泰宏作品の共通項、特に「Gガンダム」「ジャイアントロボ」に見受けられる特徴として「ロボットよりも強く描かれている超人」というのが挙げられるが、本作においてはそれが全て裏目に出てしまっている。
特にその煽りを受けているのが「ジャックバイオレンス」からの出演であるくろがね屋のつばさをはじめとするヤクザ集団であり、キャラ立ちは濃いものの物語の本筋をほぼ阻害してしまっているだろう。
また、それを抜きで考えても原作だとそれなりに愛嬌があったボス・ヌケ・ムチャが本作だとただの腕白ないじめっ子集団でしかないし、弓さやかも原作のおてんば娘としての魅力は全くない。

敵側にもまるで魅力がなく、あしゅら男爵は勝手に反逆を起こすし、ドクターヘルの行動目的が最終的に「光子力を手に入れてミケーネと戦う為」という矮小な形に変更されてしまう。
また、マジンガー軍団の奴らも本作では単なる「弓さやかの友人たち」という感じで出てくるのだが、これがとんでもなく邪魔臭く画面に映るたびに「消えてくれ」と何度思ったかわからない。
そして本作最大の癌は甲児の成長を阻害してしまっている兜十蔵博士であり、最初に死んだままにしておけば傷も浅くて済んだであろうに、本作では事あるごとに甲児に対して出しゃばってくる
回想という形でまで色んなところに出てくるから、甲児たちを含めて全てのキャラクターが兜十蔵の言い成りになって動かされている駒にしか見えず、記号としての魅力すらも立っていない。

そんなしっちゃかめっちゃかな状態なので、結果としてキャラクターの書き分けすらできておらず、ただ全体通して登場人物がやかましく騒ぎ立てるだけになってしまっている
総じて今川作品の悪いところが全部膿のようにして露呈してしまったのが本作の人物像ということになり、少なくとも本作で印象に残った人物は味方側にも敵側にも誰一人としていない。

原典との比較を踏まえた相対評価として

原典の『マジンガーZ』(1972)は何故に偉大な名作なのか?

こちらも併せて読んで欲しいし、ちょうど今期間限定でYouTubeでも配信されているので興味があれば見て欲しいのだが、原典の『マジンガーZ』(1972)は何故に偉大な名作なのか?
1つには「ファーストペンギン」としての先行者利益が大きいわけだが、決してそれだけではなく「主人公とロボットが共に成長して世界を守るヒーローになっていく」というプロセスそれ自体にある。
ロボットアクションの高度な駆け引きもそうだが、何より間抜けな弱点が多く存在しながらも力を振るえばどんな強敵でもバラバラに粉砕するだけの破壊力とそれを使いこなす甲児たちが魅力なのだ。
単にやかましく必殺技を叫んで敵を倒すだけではなく、未熟ながらも戦いの中で時には自分で葛藤し、またある時は仲間の力にも頼りながらチームワークを形成し機械獣軍団を鎧袖一触と蹴散らしてきた。

少なくとも本作のただやかましいだけのチンピラな兜甲児とマジンガーZとは違い、創意工夫を凝らして危険な状況を切り抜けていきながら「神にも悪魔にもなれる魔神」を間違いなく自分たちのものにしていった
本作はそういう「強大な兵器をモノにしていく」までの物語としての作りになっていないし、また「マジンカイザー」のように最初から反則的に強く無双していく形式にすらもできなかったのである。
もちろん2009年にただ何の工夫もなくマジンガーZと機械獣の戦いだけを切り取って描いてもそれ自体はすでに過去に遣り尽くしているのだから今一度やり直してもあまり意味はないだろう。
しかし、その結果出来上がったのが最初だけ予防線張っておきながら、そこに至る道中が物凄く煩雑でも「今川だから仕方ないで許してください」という「甘え」にしかなっていないのは如何なものか?

結果として、少なくとも原作を原体験で知っているファンはもちろんのこと、そうでない私たちの世代ですらも入り込めない「マジンガーを名乗った別の何か」にしかならなかった。
少なくとも原典たる東映アニメ版の「マジンガーZ」は作画なども含めて古めかしい部分はあるが、そんなのが気にならないくらいロボットアニメとして大事なエッセンスが全て詰まっている。
どこぞの似非インテリみたいに「そういうお約束だから」で逃げているようなジャンルでもないし、本気で言っているのだとすればそれは明らかに原典を見ていない的外れな負け犬の遠吠えだろう。
何より今川監督にこそ私は原典たる『マジンガーZ』(1972)のテイストへのリスペクトは欲しかったし、それが出来ないようであれば「マジンガー」という偉大なロボアニメを利用しないでいただきたかった。

OVA「ジャイアントロボ THE ANIMATION -地球が静止する日」で味を占めた今川監督の悪癖

なぜ今川泰宏監督が本作でこんなことになってしまったのかというと、OVA「ジャイアントロボ THE ANIMATION -地球が静止する日」の予想外のヒットで味を占めてしまったせいだろう。
ここである程度前倒ししてOVA「ジャイアントロボ」がどんな作品だったかについて私見を述べるとするなら、この作品は当時1つの市場を確立していた「オリジナルビデオアニメーション」の1つの金字塔として世界中に評価された。
理由としては1990年代が「ビデオレンタル全盛期」であったことが挙げられるが、それ以上に「横山キャラ総出演」という、かつて手塚治虫が使っていた「スターシステム」を大々的に導入したお陰であろう。
この手法が当時としては非常に画期的であり、特に素晴らしきヒィッツカラルドの「指パッチンで真っ二つ」という超能力の表現に関しては元ネタがあるとはいえよく思いついたと思える映像表現である。

そして何よりも「パトレイバー」という「ガンダム」の文脈を濃く引きずったミリタリー系のロボットアニメの余波があった中で本作により「スーパーロボットアニメの再来」に大々的に貢献したのが本作なのだ。
そういう「商品」としてのあり方と「作品」としてのあり方の双方において、OVA「ジャイアントロボ」の手法は画期的であり、本筋を脱線しているし話を実は完結していないにもかかわらずその細部の盛り上げが面白かったし楽しかった。
このあり方がバカ受けしたことで今川監督は味を占めてしまったのか、「Gガンダム」を除く「真ゲッターロボ!」や「鉄人28号」などでも同じ手法を繰り返し使ってしまい、その手法が完全に劣化し枯渇したのが本作であろう。
本来であれば今川監督の手法自体は「ミスター味っ子」で1つの完成を迎えたわけなのだが、それが当時としてはそれなりに画期的なものとして映ったのであろうし、コアなファン層の獲得にも繋がったのだ。

しかし、どんなに優れた個性的な演出の手法を持っていたとしても、それに依存して延々と擦り倒していたら単なる「馬鹿の一つ覚え」でしかなく、常にアップデート(更新)・アップコンバート(高解像度化)することを怠ってはならない。
それを怠った瞬間に待ち受けているのが出涸らしによる衰退であり、案の定本作を最後に今川監督がロボットアニメの総監督や演出を務めることはなくなるわけだが、言うなれば底を突きかけていた過去の貯金が本作でゼロになったのであろう。
何より他のスタッフもそんな監督の悪癖をわかっていたからこそ、本作を最後に仕事が来なくなったのかもしれないのだが、そう考えると如何に『機動武闘伝Gガンダム』(1994)が例外的だったかがわかる。

『機動武闘伝Gガンダム』(1994)が例外的なS(傑作)となり得た理由

今川泰宏監督が総監督を務めた作品の中で『機動武闘伝Gガンダム』(1994)は例外的なS(傑作)だったのだが、その大きな理由としては昨日の記事でも書いたように今川監督だけの力で成り立った作品ではないからだ。
まず、シリーズ構成の五武冬史や山口亮太が前年に『疾風!アイアンリーガー』(1933)を担当しており、その中で「熱血スポ根の復権」と「代理戦争としてのスポーツ」を作劇のノウハウとして培っていた
更には勇者シリーズやエルドランシリーズの楽曲で大きな功績を挙げた作曲家の田中公平先生がいたこと、演出家に谷口悟朗監督をはじめとする優秀なスタッフが彼の周りに沢山いたことが挙げられる
また、今川監督が指名された理由も富野監督が直々に抜擢したからであり、必ずしも今川監督自身が望んだことではなかったのであろうが、それが逆に良い意味での抑止力となっていたのではないだろうか。

「Gガンダム」はそれまで割と年齢層高めのティーン(中高生)をターゲットにして作られていたガンダムシリーズとは明確に違ったキッズ層(未就学児童〜小学生)をターゲットとして作られた。
いわゆる「大人の鑑賞に耐える作品」を目指して作っていたシリーズの概念を一気に振り払ったわけだが、同時に「子供に真摯に向き合って作る」ということがいい意味で「Gガンダム」をS(傑作)たらしめたのであろう。
どんなに優れた演出手法を持っていたとしても、それをきちんと他のスタッフとの調和を図りながら1つの作品として仕上げなければならず、どこかが極端に主張しあってはいけないのである。
どこかが極端に主張してしまったらそれは単なる今川監督個人の自己満足でしかなく、「子供向けの玩具販促」というのがいい枷となって、相乗効果で巧まざるマスターピースへと昇華されたのだ。

私が基本的に作家主義ではなく作品主義で評価しているのもまさにここであり、最終的には「作家」ではなく「作品」としての良し悪しが論じられるのが本来の感想・批評であるべきだという考えが強くある。
そしてそんな中にも、作家性とか演出とか脚本とかの「どこが良かった?」のレベルを超えて作品そのものがとんでもない力を持って圧倒してくる感覚を受け手に与え驚かせるものこそが真のS(傑作)だと私は思う。
「Gガンダム」はその意味で富野監督にとっての『機動戦士ガンダム』(1979)同様に本人だけの力ではない時の運も含めたあらゆる「目に見えない外力」が奇跡的に作用した作品なのだ。
だから今川監督の演出だけで全てを語ることはできず、最終的には作品を作家が超えた素晴らしい例外的なものであり続けるのだろう。

まとめ

まとめに入るが、結局のところ本作は「今川監督の究極の自己満足」以上にはならず、最初に書いた通り「満たされない器に何も詰め込めず力だけが暴走した空虚なハリボテ」でしかなかった。
時の運などいろんな要素に恵まれて妙な大ヒットをしてしまった珍妙な演出家が脚本その他にまで出しゃばった結果、単なる珍妙な同人作品にしかならなかったのである。
本作を最後に今川監督はロボットアニメを作らなくなるのだが、本作の作品ですらない出来栄えを見ればそれも宜なるかなという次第であろう。
最終的な評価はX(判定不能)であり、いくら私が「無知なオタク」の「活字オンチ」だったにしても、こんなゲテモノを忖度して有り難がるような感性は微塵も持ち合わせていない

  • ストーリー:X(判定不能)100点満点中-120点

  • キャラクター:X(判定不能)100点満点中-120点

  • ロボアクション:X(判定不能)100点満点中-120点

  • 作画:D(凡作)100点満点中50点

  • 演出:X(判定不能)100点満点中-120点

  • 音楽:C(佳作)100点満点中65点

  • 総合評価:X(判定不能)100点満点中-61点

評価基準=SS(殿堂入り)S(傑作)A(名作)B(良作)C(佳作)、D(凡作)、E(不作)、F(駄作)、X(判定不能)


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