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越前リョーマ「の」ライバルは誰なのか?赤也や遠山が越前のライバルになりきれない理由を考察

「テニスの王子様」を旧作からアニメも含めて改めて読み直していますが、許斐剛先生が描く原作とトランスアーツが作っていたテレビ版やOVA、新テニアニメ版はキャラ解釈が全然違います。
その1つが主人公・越前リョーマに関することですが、よくよく読み返してみると旧作も新作も越前リョーマ「の」ライバル、もっといえば因縁のある相手はいませんでした
強いて言えば手塚国光・越前南次郎・遠山金太郎は近しい間柄であるため「ライバル」といえそうですが、原作では一貫してリョーマが彼らに執着していた様子はありません
初期から伏線が張られていたライバルの立海大エース・切原赤也は草試合で決着をつけてしまったので今はもう「ライバル」とはいえないほど大きく水を開けられましたし。

このことに関して疑問視する声もあり、中には全国大会決勝S1のリョーマの相手が赤也ではなく幸村精市だったことに対して物申している方の意見も見かけたことがあります。
もっともこれはリョーマだけではなく手塚の方も同じことで、手塚「を」ライバル視する人達は山のようにいますが、手塚「が」ライバル視する人はあまりいません
強いていえば越前リョーマと不二周助くらいだと思いますが、多分手塚が越前と不二にかけている思いはそれぞれ違うし、越前と不二が手塚にかけている思いも違います。
それは少年漫画にありがちな「ライバル」「親友」のいずれとも収まりがつかない微妙な関係性であり、可哀想なことに手塚の中で他校の部長たちはもうライバルではないでしょう。

今回は越前リョーマに特化して話をしますが、越前リョーマはおそらく「一対一で戦って相手の強さを引き出して自分がその上を行って勝つ」ことにテニスの動機があります。
だからボルクや手塚が持っている「プロアマ」という境界線はリョーマにはなく、一度勝った相手に対してはさほど興味を示しているようには見えません。
実際新テニで因縁をつけてきた亜久津に関しては「あっそ」といなしていてリョーガにすら袖にされて全く相手にしていませんでした。
天衣無縫を開いてからは特にそうなんですが、おそらく越前リョーマにとっての「勝ち負け」とは単純にスコアの上で相手に勝つというものじゃないでしょう。

もし試合のスコアだけで相手に勝ってマウントを取りたいのであれば、それは氷帝・立海・四天宝寺と変わらない次元の低いところで戦っていることになります。
リョーマの場合はそれと違っていて、手塚に負けたことで何が変わったかといえば「自分より強い相手がいくらでもいるかもしれない」という危機感を持つようになったことです。
明らかに手塚に惨敗してからの越前は目つきもやる気も違っていて、「全員かかって来やがれ」とルドルフの裕太戦前のウォーミングアップで言っていたこともその表れでしょう。
手塚は不完全な状態でも敢えて越前に自分が壁となってそれを教え、「お前は青学の柱になれ」と伝えたことで「目の前に現れたライバルたちより強くなること」で自信をつけました。

これが越前リョーマの強さや向上心の源泉であり、逆にいえばもう自分が超えてしまった相手に対しては「まだまだだね」とまで言うようになっています。
新テニに入ると、同じようにリョーマは高校生の徳川に挑んで敗北を喫するわけですが、この時は手塚や南次郎に負けた時とは違って「面白いじゃん」と言い放ちました。
リョーマは勝って勝って勝ちまくる内に「自分が勝てない相手はいない」という自尊心が高くなっており、結果負けても次勝って強くなればいいと思っているのです。
これは勝つまでその相手に執着しまくる遠山金太郎やビッグ3を超えることばかりを意識する切原赤也、手塚国光ばかりを意識する不二周助や跡部景吾様との決定的な差でもあります。

旧作の越前リョーマの目標は強いていえば親父超えと手塚超えだったのですが、その目標は既に新テニで更新されていて、もはや南次郎と手塚だけが目標ではなくなりました
平等院鳳凰や徳川カズヤとの一騎討ちも入っていますし、スペイン戦では兄のリョーガを倒すことが目標になっており、毎回更新されているのです。
そして敵が自分より強ければ強いほどリョーマはワクワクしてもっと強くなるし、その敵に負けたとしても次に強くなって勝てればいいと思っています。
この「1人の相手に必要以上に頓着しない」「不可能なことを不可能と思わない」「真剣勝負を楽しむ」ことがリョーマの心の強さであり、これが天衣無縫に繋がっているのでしょう。

逆に言うと、リョーマにとって超えたい相手や目標となる選手がいない場合リョーマの成長と進化は止まってしまう傾向にあり、意外にも1人で強くなるのは苦手です。
この辺りもまた赤也・遠山・不二・跡部様・亜久津とは違うところで、彼らは才能だけでいえばリョーマより上で1人で進化するのも得意な傾向にあります。
ではなぜそれが可能なのかと言うと赤也の目標がビッグ3、遠山と亜久津が越前リョーマ、不二と跡部様が手塚国光をライバルに見立てているからです。
だから才能や技術の進化といった表面だけをみれば手塚・越前よりも上に見えますが、それでも相手が自分の予想より強かった場合絶望して勝負を諦めがちなところがあります。

リョーマはここが逆であり、リョーマは自分の予想より強かった場合どうすればそいつを超えられるんだろうかと必死で模索して最適解を導き出すのです。
その上で「テニスでは誰にも負けない」と言っているわけであり、正に一流のテニス選手としての資質を申し分なく持ち合わせているのではないでしょうか。
だから越前リョーマの試合は実力以上に誰しもが彼のそんな姿に「希望」を感じてしまうし、たとえ無理だと思えてもリョーマならなんとかしてくれると思えるのです。
まあそのせいか、リョーマは弱者には一切興味がなく、自分を超えうる強さに到達した相手でなければライバルと認めないという傾向にあります。

赤也や遠山と気が付けば大きな差が開いたように見えるのも、おそらくその辺りの意識の差にあって、それが実力よりも大きな差となって開くのではないでしょうか。
アメリカの自己啓発書作家トニー・ロビンズは「才能の差は小さいが、努力の差は大きい、継続の差はもっと大きい」という名言を残しています。
その「努力の差」「継続の差」はもっと言い換えれば「意識の差」であり、最終的には飽くなき向上心を持ち、真剣勝負を楽しめるかどうかが大事ということでしょう。
許斐先生は越前リョーマのことを「漫画によくあるパターンにハマって欲しくない」と言っていましたが、特定のライバルを設定しないのもその表れなのかなと思います。

だから越前リョーマ「専用の」ライバルはいませんが、強いていえば「コートの向こう側に立つ全員」がリョーマにとっては「敵」であり「ライバル」なのでしょう。
アニメだと単なる生意気がってるツンデレキャラに描かれがちですが、許斐先生が描く原作の越前リョーマは基本的にこの原則に沿って描かれています。
それと同時に赤也や遠山がもし越前リョーマのライバルで居続けたいのであれば、彼ら自身もリョーマのように意識を変えて取り組む必要があるのではないでしょうか。

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