『機動戦士ガンダムSEED』簡易感想〜「守るべきもの」を背負ってしまったら負けである〜
『機動戦士ガンダムSEED』の再視聴を終えたので、改めて20年越しの感想・批評をば。
評価:E(不作)100点中35点
近年やたらに再評価(?)なるブームがネット界隈で起きているとのことだったので再視聴したが、やっぱり何度見てもダメなものはダメなのだなと(苦笑)
はっきり言って本作は私が到底擁護しようなどとは微塵も思えない作品であり、作り手が見せたいものが全く私の肌に合っていなかったのだというほかはない。
ただ、じゃあ見所が全くなかったかといえばそうでもなく、ロボアクション自体はバンクや使い回しも多いとはいえ、なかなか悪くなかった。
好きか嫌いかでいえば「好きではないが、完全に嫌いにもなりきれない」という煮え切らないもので、それもまた私の中で本作の位置づけがめんどくさいことになっている理由の1つでもある。
本作は「遺伝子操作が生み出した人種差別」が一応の物語的な主題になっているのだが、これ自体ははっきり言ってさして意味のない設定だったといってもいい。
なぜかといえば、本作で描かれる「コーディネーターとナチュラル」、そしてその象徴のようにして描かれる種割れによる覚醒という設定は全てキラ・ヤマトを最強主人公たらしめるものでしかないからだ。
昨日書いた記事の「やめてよね」でもう本作の結論は出てしまっている、この作品において最初から最後までキラ・ヤマト及び彼のシンパを超えられるものは存在していないのである。
いってみれば「遺伝子で人間の才能は決まってしまう」という、まさかの代理母制度や着床前診断をフィクションの中で肯定する作品が終ぞ21世紀のファーストガンダムなどと称される形で現れるとは思うまい。
富野ガンダムでいうところの強化人間が主人公となってしまった世界観が本作なのである、その意味で本作において仮想敵となったのはいうまでもなく富野ガンダムである。
だが、だからと言って福田も両澤も今更その富野ガンダムという強敵にあえて挑まない、挑んだところでファーストが「エポック」と評される形で得た神話には逆立ちしたって敵わないのだ。
さりとて強さをインフレさせたところで『機動武闘伝Gガンダム』にも敵うわけがない、あの世界はフリーザ軍ばりの強大な戦闘力と科学技術を持った者がガンダムに乗って戦いを繰り広げているからである。
そして、それらの歴史を月光蝶によって黒歴史化した『∀ガンダム』の寓話性にも勝てるわけがない、いくら人間性に問題がありまくる福田と故・両澤もそんなことが分からぬほど愚か者ではないだろう。
だから両者は立ちはだかる先輩方に無謀な戦いを挑むことはせず、キラ・ヤマトを最初から劇中最強という高みに設定することによって、あえて闘うまでもないというのだ。
キラ・ヤマトは強い、なぜならば遺伝子操作の時点で勝ち組になりえた最高の子供だからであるという身も蓋もない才能ガチャを循環論法のごとく成立させてしまったのが本作である。
しかし、だからといって終始圧倒していてはただの無双ゲーにしかなり得ない、昨今でいう異世界転生ものやなろう系と変わらないことになってしまうだろう。
そこで作り手が目をつけたのが「心の破壊」であり、キラ・ヤマトを集中攻撃して心理的に追い詰めることでその循環論法を剥がしていく一種のアンチヒーロー作品となった。
戦えば戦うほどキラはどんどん孤立していくのはアムロ・レイをはじめとする歴代の主人公たちが辿ってきた道のりだが、そんな彼と対等のステージに立てるのは精々ラクスやアスランくらいしかいないであろう。
だから後半でフリーダムを手にした彼はその名前のごとく物理的には連邦にもザフトにも属さない第三勢力となっていくのだが、逆にその心はどんどん彷徨い曇ることでかえって不自由となっていく。
終盤ではミーティアという、どこのデンドロビウムだと言わんばかりのごてごてとした最強パーツまで手にしていながら、キラの心は相対的にどんどん弱体化していった。
「想いだけでも力だけでも」というのは一見正統派ヒーローのそれっぽいが、キラはそうあらんとすればするほどかえってその純粋な優しさに基づく正義感と現実の乖離が心を蝕んでいく。
そんなキラの「スペック最強、メンタル最弱」がどんどん露呈していく中で、そのキラの化けの皮を剥がす人物としてラウル・クルーゼというシャアに似た何者かがそのアンチテーゼとして立ちはだかった。
この対立は激化していき、終盤で真っ向からぶつかり合った2人の最終対決でキラはとうとうその化けの皮を全て剥がされ「試合に勝って勝負に負けた」という状態に陥ってしまう。
失敗作であり寿命にも限界があるクルーゼは復讐や背負うべきものを強さに変えるシャアとは対照的に、守るべきものも失うものもないが故にキラの痛いところを容赦なく突いていく。
一方のキラはスペックでそのクルーゼを上回ってこそいるものの、自らの不注意と油断が数少ない理解者であるフレイの死を招き、クルーゼの反論をきちんと論破できず、力で無理矢理屈させるしかない。
ここで実は初期とは完全なる逆転が起きており、最後の段階で失敗作と評されたクルーゼが軽やかに物語の論理から逸脱し、逆にキラはどんどん死者であるフレイの重力に魂を呪縛されてしまった。
実質的な本作における勝者はいうまでもなくクルーゼであり、皮肉なことにキラは最強であったが故にかえって守ることのできないものを勝手に背負い、精神的に自滅した敗者なのである。
さりとてカミーユのように精神崩壊することも許されなかった、だからその意味で本作が出した結論はそれまでのどのガンダムシリーズにもなかったものを確かに提示していた。
この結末自体に異論はない、最初からキラを最強として立てる方向でそれを崩すことに決めた以上、最終回はむしろ物語としては当然の帰結だといえる。
だが、何と皮肉なことか、背負うものもなく戦い続けるクルーゼこそが真の勝者であり、守るべきものが増えていったキラの方が敗者だということになってしまった。
それはヒーローフィクションの理屈から見ればどう考えてもご法度なのだが、その御法度をやったからこそ本作は評価されているという向きもあろう。
しかし、詰まる所それは「現実と向き合い戦い続ける」というガンダムシリーズが提唱してきたことからの逃避に他ならないのではないか。
「Gガンダムは逃げ」などと宣っていた福田監督だが、自分がガンダム人気回復のために作り上げたこの「SEED」こそが「逃げ」の作品となってしまったのである。
私が本作を擁護出来ないのはまさにそこにある、最強を振りかざし主人公を曇らせたまではいいが、そこから先の画面の運動と物語を紡ぐだけの仕掛けを福田監督も両澤脚本も持ち得なかった。
少なくとも初代の呪縛を振り切ってガンダムシリーズに風穴を開けた「Gガンダム」程の革新を文芸としてもビジュアルとしても「SEED」は起こすことができなかったのである。
そんな益体もないものを再評価などといって持ち上げる感性など私は持ち得ておらず、故に何度見返してもこれを「21世紀のファーストガンダム」などとはお世辞にもいえない。
元々ダメだったものは何年経とうがダメなのである。
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