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令和時代の少年漫画はアムロ・レイや碇シンジなどの「THE・陰キャ」の縮小再生産なのか?

今地味にシークエンスはやともなる霊視系の芸人が地味に界隈でブームらしい、私はあまり占いの類を信用していないが、この人の語り口は聞いていて嫌味なところがなく、とても心地いい。
その中で、ダイノジの大地が「〜、ごめん」という言い方を嫁さんに注意されて「謝るんじゃなくて、感謝してよ」と言われて、今まで自分の潜在意識が消極的な方に動いていることに気づいたそうだ。
そう、人間の意識は全て「言葉遣い」が決めるものであり、普段から「ありがとう」で生きるか「ごめんなさい」で生きるかで現実は大きく変わっていくものである。
そしてその中で面白い話があって、少年漫画の主人公に関する以下の話が出ていた。

大地:去年・今年・一昨年とか主人公一回ネガティヴだもんね
はやとも:チェンソーマンとか
大地:チェンソーマン・鬼滅も一旦ネガティブなところからスタートしてっていう、そこが一番流行るらしいよやっぱ
はやとも:「海賊王におれはなる!」とか「火影になるってばよ」っていうやつ一人もいないですから
大地:いないよね!?
はやとも:本当にいないんすよ!
大地:主人公が悩んでウジウジしてるのがいいんだって!
はやとも:一生懸命デンジくんが敵倒してんのはおっぱい揉むためですからね

私の中で長らく近年の「鬼滅」「呪術」「チェンソーマン」の異様なブームに対して引っかかっていたのはおそらくこれである。
そう、主人公たちがネガティブな方が実は強烈な共感を呼びやすいしドラマを作りやすい、これは古今東西変わることがないエンターテイメントの基本ではなかろうか。
例えば、日本の伝統芸能には「能」と「狂言」があり、私もきちんとした舞台は一回しか見たことがないが、基本的には「能」が中心で、幕間に「狂言」が挟まれる。
「能」とは簡単にいえば「悲劇=シリアス」であり、「狂言」は「喜劇=コメディー」なのだが、日本だと特に昔から代表的な名作・傑作は大体「能」のような悲劇のものが多い。

例えば「源氏物語」は恋愛ものとしては実は割と悲劇的要素が多いし、例えば漫画の神様と言われる手塚治虫の代表作は「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」をはじめ悲劇の方が圧倒的に多いのだ。
それこそ、永井豪の代表作である漫画版「デビルマン」も結末は悲劇的であり、あの時代は特に70年代の学生運動の終焉や公害問題などの社会的問題が多かったせいで、暗かった時代である。
だから、私自身は好みではないが、「鬼滅」「呪術」「チェンソーマン」が流行るのも当然であり、主人公がネガティブなところからスタートしていたからだ。
もちろん世の中に言われる「成功作」と呼ばれるもののヒットの法則なんぞ実はなく、ほとんどが「時の運」全てなので、誰もその要因を明確に説明することなどできない。

しかし、同時代にヒットしていたものをいくつか調べていくと「シンクロニシティ(偶然に似たような出来事が同時発生すること)」としてどのようなものがあったかを調べることができる。
そういえば、押井守監督も「鬼滅」のヒットの要因を「コロナがあったから」と言っていて、実際コロナが日本に伝播した2020年、それまで大して注目もされてなかった「鬼滅」がバカ売れした。
それまでジャンプに興味のなかった有名人の鈴木愛理や有吉弘行のような人たちまでもが読んで絶賛してたくらいなのだが、悪くいえばブームの尻馬に乗ってるあざとい感じさえしてしまう
原作の絵なんてまるで小・中学生が描いたんかと思うくらいド下手だし(特に戦闘シーンなんて読めたもんじゃない)、台詞回しもいかにもなお涙頂戴で「泣かせ」に走ってるのが態とらしく感じられた。

アニメ化によってだいぶ美化・修正が入ったからなんとか世間一般に見られるレベルにまで昇華されただけで、そうじゃなかったら「鬼滅」の偶発的な突然変異のヒットなどあり得なかっただろう。
だが、その「鬼滅」に続いて「呪術」「チェンソーマン」、そして今年は「推しの子」のヒットとあり、いずれも傾向としていえるのは主人公が全員ネガティブな陰キャ臭出しまくりの奴らだということだ。
昔だったらこういう主人公像はあまり一般受けしなかった、例えば「ガンダム」のアムロ・レイも「エヴァ」の碇シンジも「ドラえもん」の野比のび太も子供受けはあまり良くなかったし、私も好きかと言われたら嫌いである。
そりゃあそうだ、「マジンガーZ」の兜甲児や「ゲッターロボ」の流竜馬・神隼人・巴武蔵などロボアニメというジャンルにはその時既にスーパースターといえる王道の主人公がいた。

小学生の天才キャラだって手塚治虫の「鉄腕アトム」のアトムや横山光輝の「鉄人28号」の金田正太郎など、先人が作った王道の主人公というのは大体前向きで万能な完璧超人である。
アムロやシンジ、のび太はそのジャンルのネガティブなカウンターとしてのみ機能していたわけであり、決してそのキャラクターの造形がジャンルにとっての主流となったことはない。
しかし「鬼滅」の竈門炭治郎をきっかけに主人公が消極的なタイプばかりになったのだが、これこそが大きな違いといえるかもしれず、思えば「ヒーローアカデミア」のデクこと緑谷出久もネガティブな陰キャだ。
YouTubeで流行っている恋愛系漫画動画の主人公も線の細い陰キャであることが多いのだが、これもそういう時代の流れとして今受け手がそういうネガティブな感情に支配されていると見ていいのだろうか?

やはりエンターテイメントの最前線にいる人たちは批評家としても一流の人が多いらしい、簡潔にではあるが私の頭の中にあった引っかかりや違和感をスッとこの下りで言語化してもらえた気がする。
だがそうなれば危惧されるのはこういう陰キャばかりが持て囃されるような世の中が出てくるということは逆にアムロ・レイや碇シンジの縮小再生産をも促すということになりかねない
実際に「アムロ」が出た後80年代前半の「リアルロボット系」なるジャンルのアニメでは割と寡黙で暗い主人公が目立ったし、「エヴァ」が出た90年代後半もそういう主人公が一時期流行った。
例えば「るろ剣」の緋村剣心や「遊戯王」の武藤遊戯も「戦いたくない臆病者」という「ドラゴンボール」でいうなら孫悟飯の系譜に位置する主人公だったが、それが主流にはならない。

すぐに「ONE PIECE」のルフィ、「NARUTO」のナルトみたいな明るい主人公が来たし、「テニスの王子様」の越前リョーマも逆張りで小生意気なルーキーを持って来たが、中身はチートスペックの天才少年だ。
つまり、アムロ・レイや碇シンジのような線が細くて後ろ向きな陰キャが今や時代の主流になっているということであり、思えばYouTuberなど今第一線で活躍している人たちはほとんどが陰キャという共通項がある。
平成までがなんだかんだ昭和の高度経済成長のノリや空気をどこかで引きずっていたこともあったのか、2010年代まではどこか浮ついた能天気な明るさや前向きさのようなものが日本人の中にはあった。
しかし、コロナによって人々のつながりが希薄化していったこの3年で、そういう高度経済成長のメンタリティーが完全に失われていることがこのサブカルチャーの傾向としても読み取れる。

だが、こういう後ろ向きな陰キャは時代の波乱に現れることはあっても、いつの時代もそれが決定的な王道や主流となり得たことはなく、精々が継承不能な突然変異としてしか機能しない
実際「ガンダム」や「エヴァ」を真似するエピゴーネンは大量に生まれたが、アムロ・レイや碇シンジと全く同じタイプの主人公は一人とて生まれていない、生まれたとしたらそれは単なる大同小異の二番煎じである。
だから私は「鬼滅」の炭治郎や「呪術」の虎杖がまるで新世代の主人公の象徴みたいに持て囃されている意味が理解できない、彼らは決して王道の主人公像ではないはずだからだ。
いわゆる我々の世代にとっての『ドラゴンボール』の孫悟空や「ONE PIECE」のルフィ、「NARUTO」のナルトみたいな王道の次世代主人公がまだ少年漫画からは出ていないのかもしれない

「チェンソーマン」のデンジくんにしたって、あれはジャンプ漫画の王道から外れているからこそ成り立つキャラであって、意図した逆張り主人公だからいかにも作った感じがしてしまう。
でもそんな時代だからこそ私はいわゆる次世代の孫悟空的な存在(ジャンルを代表する王道作品・主人公)を心のどこかで待ち望んでいるのかもしれない。
王道=看板作品」がきちんと機能しなかったら、その反対側にある「邪道=異色作」だって正しく機能しないのだから。
それともこれからは陽キャなどウザいだけの不要な人種で、これから陰キャが時代の覇権を握るキャラクターとなってしまうのか?

その辺りの流れが見えたことで、今自分がどんな批評を書いていけばいいのかが、また見えて来た気がする。

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