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『炎神戦隊ゴーオンジャー』の17・18話に見るゴーオンジャーとゴーオンウイングスの「仲間感」の浅薄さと超富裕層へのバイアス

「ゴーオンジャー」の17・18話を改めて見直すと、もう既にこの当時スーパー戦隊における「団結」「仲間」が希薄化してしまったのだなと改めて実感する。
須塔兄妹ことゴーオンウイングスのゴーオンジャーに対するマウントが鼻に付くのだが、アニの「今のような戦い方じゃ、いつか痛い目を見るぞ」はまだ判らんでもない。
演じる徳山氏の演技力も高いから、厳しいダメ出しではあるが実力は確かであるし、実際ゴーオンジャー5人の戦い方が甘っちょろいのは事実である。
しかし、問題は妹の美羽の方であり、演じる杉本有美の演技力が微妙なのか、単なる「嫌なやつ」でしかないのが個人的には頂けず、好感が持てない。

「ヒーローの価値は、くいもんとか、服装とか、そんなんじゃねえんだよ。ここだ」
「ヒーローは、人を幸せにする使命がある。人を幸せにするなら、自分も幸せの何たるかを知らねば」

このやり取りは一見戦隊シリーズお得意の既存メンバーと追加戦士の価値観の相克のようだが、私に言わせれば幼稚なガキの喧嘩にしか見えない。
要するに金に物を言わせてる骨川スネ夫辺りと大差はなく、この描写だけ見ても「ゴーオン」の作り手はお金持ちの何たるかをわかっていないのである。
能ある鷹は爪を隠す、本当の超富裕層(例:ウォーレン・バフェット、ビルゲイツなど)は決して自身のステータスや資産をこれ見よがしに誇示しない
彼らは人間が嫉妬深い生き物だというのをわかっているからこそ、その姿を滅多に表さないし、貧民の為にお金を大盤振る舞いなどしないのだ。

この時点でゴーオンウイングスは超富裕層ではなく超富裕層を気取った小金持ちの成金野郎でしかなく、彼らの発言に微塵の説得力も情念もない。
彼らは「金持ちであることを捨てて」、或いは「実家が既に滅んでゴーオンウイングス以外に道がないから」戦っているのではなく、実家に居を構えて慈善事業感覚で戦っている
プロの訓練を受けているみたいなことを言っていたが、実際のウイングスの強さは訓練を重ねたプロフェッショナルだからではなくスーツ性能がとても高いからだ
つまり変身前の身体能力や戦闘スキルにある程度依存して変身後の強さに繋げているのではなく、スーツ性能が戦っているのだから「カーレン」「メガレン」と大差はない。

そんなやつらが上から目線でゴーオンジャーにマウント取ったところで何もカッコ良くないし、ましてやそれが物語のテーゼになるほどの切迫した心情足りうる訳でもないのだ。
またそれに対して安っぽい感情論でキレ返すしかないゴーオンジャーもゴーオンジャーであり、彼らの仲間感は「命を預け合う鉄の結束」ではなく「ヒーローごっこで遊ぶ友達の馴れ合い」に見える。
これは単なる「設定」だけの問題ではなく、役者自身も昔に比べて意識が低いというか「売れてやるぞ!」というピリッとしたプロ意識を持っている人が減ったからというのもあるだろう。
実際徳山氏が追加戦士枠で顔パス採用だったのも「ゴーオンジャーの現場をしっかり締められるまとめ役が欲しい」という理由からだったらしいことを古原靖久TVにて述懐している。

ゴーオンジャーと炎神の絆だってそんなに強固な鉄のものではなく友達感覚以上のものではないし、炎神からすれば単にヒューマンワールドで手足となる戦闘要員が欲しかったからでしかない。
実際その気になれば炎神たちはゴーオンジャーとウイングスの手なんか借りなくても、いつでも巨大化してガイアークと戦うことができることを後のエピソードで証明している。
「お前は右 俺は左 若さの十字路 喧嘩もするけど 同じ痛み 感じたとき 同じ行き先を 地図に刻もう」という主題歌の歌詞なんてその表れだろう。
これは要するに「時々くだらない喧嘩はするけど、困難に陥ったら同じ方向でみんなでGOしようね!」という、浅薄な虚しさ漂うズッ友であることを意味する。

だからゴーオンジャーとウイングスが衝突したところで、かつてのギンガレッドと黒騎士ブルブラックのような深刻な別々の価値観の相克に発展することもない
美羽の金持ちマウントが生理的嫌悪感を抱くまでに至らないのは有り体に言って「女だから」であり、これが男だったら単なる骨川スネ夫であろう。
女というのは感情の生き物だから男に対して自分の容姿や美貌・財力といったものをひけらかしても男のそれほど痛くはならない、男だったら本当に救いようがない。
しかしこれは女が男にマウントを取れるほどに偉くなったわけではなく、ゴーオンジャーもウイングスも戦士としての心構えと絆が昔ほどのものではないことを意味する。

こないだ書いた「キングオージャー」の記事に「昔の戦隊の方が絆が強いように感じられる」という旨のコメントをいただくが、これは単なる懐古主義で言っているわけではない。
昔の戦隊にははっきりと戦いの構図やモデルになるものが現実にあったし、作り手も常に危機意識を持って作品を作っていた為、それがどんなにつまらなかろうが「味」があった。
こちらの記事も併せて熟読いただきたい。

上原正三がメインライターを担当した時代の戦隊はアメリカ合衆国を仮想敵とした「冷戦」「国家戦争」がモデルであり、「ナショナリズム」に基づく正義だった。
曽田博久がメインを担当した9作の根底にあるのは科学信仰を仮想敵とした「学生運動」がモデルであり、「パトリオティズム」に基づく自発的な正義である。

それが井上敏樹メインの「鳥人戦隊ジェットマン」から大きくシフトし、90年代は「個人主義」に基づく内面を突き詰めた正義であり、敵は外側ではなく己の心にあるとした。
「タイムレンジャー」まででそれを描き切った後、スーパー戦隊シリーズは「ガオレンジャー」以降「精神性」の強調とそれに伴う「身体性」の喪失に向かう。
こう見ていくと、00年代のスーパー戦隊シリーズが口にする正義だの仲間だのといったものが重みの全くないものに感じられるのも分かろうというものだ。
彼らは自分たちの身体を張って痛みを伴いながら命懸けの戦いをして勝利や平和を勝ち取るのではなく、友達感覚でゲームみたいに敵の命を奪ってしまう

「我が身を痛めぬ勝利が何をもたらす!?所詮はただのゲームぞ!」

かの東方不敗は思えばいいことを言っていたなあ、あの人にはいずれ人類が命の奪い合いや戦いをゲームの消耗品にしか思わなくなる時代が来るのをわかっていたのだ。
何せ露と宇克蘭がドンパチやっていようが、首相暗殺のテロリズムが起ころうが、作り手はそのことに対して何らの関心も持たないんだものなあ。

閑話休題、この「ゴーオンジャー」までの戦隊が根底に持っていた無自覚な楽観主義は放送開始から半年後に発生するリーマン・ショックで脆くも崩れ去る
今更拝金主義と楽観主義の塊である「ゴーオンジャー」を見て戦隊ファンがそこから感じ取れるメッセージなんて何もないのではないだろうか。
長年見えていなかった00年代戦隊シリーズの中身のなさや軽薄さに対する違和感がここ最近ようやく読み取れてきた気がする。

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