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越前南次郎が開眼した天衣無縫の極み(矜持の光)はどのようなものであったのか?日本の天衣無縫の使い手はどの精神派生に属するかも考察

先日の記事で、天衣無縫の極みがドイツ戦で「矜持の光」として再定義され、両者に共通するのが「自分軸」であるという考察を書きました。
そこで気になったのは最初に天衣無縫の極みを開眼したとされる越前南次郎が到達したとされる天衣無縫の極み(矜持の光)はどのようなものであったのか?です。
ドイツ戦で再定義された矜持の光には3種類の精神派生があります。

  • テニスを心から楽しむ「愛しさ」の輝き

  • 強さの原点を極め儚さを知った「切なさ」の輝き

  • 己の強さと弱さを知った「心強さ」の輝き

はいそこ、篠原涼子のあの歌じゃねえかと突っ込んではいけません、そんな野暮なツッコミはここではなしにしましょう。
まあ許斐先生もかなり適当に後付けしたように思われますが、でも当たらずとも遠からずというところなので敢えて土俵に乗っかってこの定義で進めていきます。
この3種類の興味深い点は決して「楽しさ」だけが天衣無縫の極みの開眼条件ではないのが判明したことで、これはとてもいい意味拡張となりました。
つまり、天衣無縫の極みを開眼するに当たって「テニスを楽しむ」ことは「必要条件」ではあっても「十分条件」ではないということです。

ドイツ戦でそう説明されたことである程度の回答は出ましたが、ではここから本題に入っていきましょう。

越前南次郎が開眼した天衣無縫の極み(矜持の光)はどの精神派生か?


まず越前南次郎が天衣無縫の極み(矜持の光)に最初に到達したと言われますが、あくまでも「そう言われている」だけであって、実際にそうであったかはまだ劇中で判明していません。
昨年公開された越前親子の物語を描いた『リョーマ!』でも描かれていませんし、また越前南次郎の現役時代が描かれた漫画版のエピソード0でも天衣無縫の極みはまだ出てきませんでした。
もしかすると、今後「新テニ」のS2で越前リョーマと越前リョーガの兄弟対決があって、そこで南次郎の過去が回想で描かれる可能性もありそうですが、現状はなんとも言えません。
許斐先生はこの辺りファンが望む読みたいものを巧妙な形でギリギリまで伏せておいて、忘れかけた頃にここぞというところでピンポイントで出してくる人なので油断は禁物です。

ただ、現在のところ私たちが窺い知れる描写や経歴から南次郎の心理を考察すると、個人的見解としては「切なさ」の輝きだったのではないかと思います。
こう書くと疑問に思う方もいるかもしれませんが、越前南次郎がアメリカでデッケー夢を果たすためにアメリカにやって来た破天荒な描写から想像すればわかることです。
南次郎はリョーマと違って風来坊のようにして渡米しましたが、南次郎の言うデッケー夢とは最初は「世界一を取ってテニスの頂点に立つこと」だったように思えます。
その道半ばで今の奥さんとなる竹内倫子さんと出会ったわけですが、この時南次郎の「俺にもテニス教えてくんない?」は原作だと越前リョーマが切原赤也に啖呵を切った時との意図的な重ねです。

この後南次郎は卑劣なラフプレーを働いたデブのおっさんに正しく天衣無縫のごとき何者も寄せつけないテニスを見せつけて圧倒し、破竹の勢いでタイトルを総なめにしていきます。
一方で越前リョーマもまた青学で完勝無敗を貫き破竹の勢いで進んでいたところでの赤也との出会いであり、劣勢には追い込まれたものの無我の境地に覚醒して赤也を圧倒しました。
その後たった1年半で世界四大テニストーナメントを次々勝ち抜いていくわけですが、次の大会で勝てば世界一位になれるにもかかわらず、彼は引退してしまうのです。
倫子も流石にこれには閉口してなぜかと問いただしますが、息子のリョーマがラケットを握ってテニスを楽しんでいるところを見て、そのデッケー夢が大きく変わりました。

そしてその後、全国大会決勝でリョーマが天衣無縫の極みに到達した時に「世界に行ってもほとんどのやつが勝つためだけのテニスしかしなかった」と哀愁漂う嘆きを口にしています。
ここから逆算的に考えると、おそらく南次郎がプロになった時にはテニスを純粋に楽しむ心はもちろんのこと、何よりも純粋な力量や才能で南次郎に匹敵する存在がいなかったのでしょう。
越前リョーマにとっての遠山金太郎、手塚国光にとっての不二周助のような互いに高め合える好敵手がおらず、テニスを極めた先に待ち受けていたのが孤独でしかなかったのです。
そりゃあ手塚ゾーンの原型であるサムライゾーンからドライブショット、さらには不二が使っている心の瞳まであらゆるテニスを使えるわけですからそうそういるわけがありません。

強さの原点を極めた南次郎はその儚さを知ったことで「切なさ」としての天衣無縫の極みに到達したのではないだろうか、というのが私の考えです。
越前南次郎はそれを知っているからこそ息子のリョーマには「テニス、楽しいか?」と問いかけ、常にテニスに対して前向きな心を持つように促しています。
自分の息子がテニスで強さを知った先にある切なさに陥らないよう、どんな時でも楽しくプレイしてほしいという願いがそこに込められているのかもしれません。
南次郎にとって、テニスで強さを極めるというデッケー夢と世界一位とで見られる現実の景色とにギャップがあったからこそ1年半で引退したと考えられます。

日本の天衣無縫の使い手はどの精神派生に属するか?


越前南次郎が「切なさ」の輝きだったと仮定するならば、息子のリョーマをはじめとする他の天衣無縫の極みの使い手は一体どの精神派生に当たるのでしょうか?
まず簡単にわかるのは主人公のリョーマとライバルの遠山金太郎はテニスを心から楽しむ「愛しさ」の輝きということで間違いありません。
リョーマは全国大会決勝で記憶喪失と五感剥奪という二重の喪失を経験しながらもテニスを楽しむ心を忘れず、自分の原点にたどり着きました。
だからこそ、「楽しんでる?」という言葉が出てくるわけですし、どんな高い壁にぶち当たってもそれを物ともせずに楽しそうに攻略する胆力が彼の持ち味です。

リョーマのライバルである遠山金太郎もおそらくは「愛しさ」の輝きですが、リョーマとは天衣無縫の極みへの到達の仕方が逆のアプローチでした。
これに関しては以前に考察したので今更多くを語りませんが、鬼との勝負の状況でなお追い詰められながらもテニスを面白いと思う心を忘れなかったのです。
越前と遠山はテニプリにおける「可能性」「未来」の象徴でもありますから、ポジティブにテニスを楽しむ存在であって欲しいから設定されています。
この2人が越前南次郎に出会って話をしているというのも決して単なる偶然ではないと思われますが、日本にはあと2人手塚国光と鬼十次郎という使い手がいます。

まず手塚国光ですが、一見したところ「愛しさ」の輝きっぽいですが、ただ同時に長いこと強さの原点を極めた先にある儚さを経験しているため「切なさ」の輝きとも判別できそうです。
もともと強かったからこそ先輩の嫉妬や反感を買って才能を一度潰されてしまいましたし、また左肩を故障したりと何度もプロになるためにテニスを失いかけました。
その意味では青学の中でテニスに対して純粋ではありますが、同時にそれゆえの切なさや儚さも知っている人間ですから、場合によっては幸村のようになってもおかしくないわけです。
そうならなかっただけでも奇跡ですが、手塚の場合あの無表情から考えても「楽しませてもらっていいですか?」よりも「俺のなすべきことは終わった」で開眼しましたから、切なさの方が近いでしょう。

そしてQ・Pに完敗してしまった鬼十次郎ですが、彼はおそらく己の強さと弱さを知った「心強さ」ではないかと思います、平等院を倒し徳川や入江の面倒を見ていましたからね。
しかもあんな強面なのに子供達には大人気でサンタクロースまでやっているサービス精神ですから、テニスプレイヤーとしてだけではなく人間としても非の打ち所がないです。
そんな彼は遠山と打ち合う中で己の中の強さと弱さを思い出し、天衣無縫の極みを取り戻したわけであり、越前・遠山・手塚のいずれとも違うパターンでの覚醒となっています。
もしかするととっくの昔に開眼していたものを経験とともに忘れてしまい、それを金太郎との対決で取り戻したという感じでしょう。

今後天衣無縫の極みに到達できそうな選手はどれだけいるか?


このように見ていくと天衣無縫の極み(矜持の光)に到達するには改めて相当に厳しい試練を潜り抜けることが必要となってくることがわかります。
さて、そこで改めての疑問ですが今後天衣無縫の極みに到達できそうな選手がどれくらいいるのか?これに関する回答を出しますが、私の見解ではしばらく出ないでしょう。
確かに天衣無縫の極み自体は「テニスを楽しむ心」という「自分軸」が大事になりますが、実際にそこに辿り着ける選手はほんの一握りです。
まずお頭が提唱している阿修羅や無没識は悟りの境地ではなく修羅界の考えなので、天衣無縫の極み(矜持の光)とは異なっているから到達できません。

また幸村・真田・赤也のような「奪う」「狩る」系、すなわち闇属性に近いテニスをしている人も天衣無縫の極みには到達できないでしょう。
特に幸村と赤也は「天衣無縫の極みがなくてもテニスで勝てる」ことを証明した人たちですから、そんな人たちが天衣無縫の極みに到達したら本末転倒です。
天才不二に関しても同様に、あくまで彼は人間界の中で自分に可能なカウンターと風の攻撃技だけで効率のいいテニスをしてスリルを楽しんでいます。
だから独自路線で天衣無縫を抑え込むことに成功しているため、今更無我の境地に到達しても大したメリットはありません。

こう考えると可能性として高いのはリョーマの兄・リョーガですが、彼の場合は幸村同様「能力剥奪」という闇属性が強いテニスをしています。
テニプリにおいて一度でも闇に手を染めてしまったものが無我の境地はともかく天衣無縫の極みに到達することはできません、何よりあのお頭ですら危険だとして追放したぐらいです。
リョーマとの対決で救済されたとしてもそれまで対戦相手の能力を奪ってきた過去が帳消しになるわけじゃないので、許斐先生はそのような無理をキャラにさせる人ではありません
ですからよっぽどの逸材でも投入しない限り、しばらく天衣無縫の極みに到達できる選手は日本・海外ともにしばらく出てこないと思います。

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