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『未来戦隊タイムレンジャー』5・6話で見られる共同体崩壊とタイムレンジャー(トゥモローリサーチ)という「居場所」の脆弱さ

現在配信中の「タイムレンジャー」の5・6話は序盤の中で地味ながらも実は裏でとんでもない運動が蠢いていることを改めて実感させられる。
5話がタイムピンク/ユウリの復讐、そして6話がタイムレッド/浅見竜也の父親との確執が描かれているが、これ自体が実はスーパー戦隊の歴史の中で極めて意識的な「戦隊」に対する強烈な反抗であろう。
「タイムレンジャー」が歴代戦隊の中でも極度に「私的なるもの」の度合いが「公的なるもの」の度合いを上回っているのだが、それを改めて受け手に感じさせたのが今週の配信分である。

感想というわけではないが、改めてこの2話が何を示していたかを論じてみよう。

(1)ユウリの暴走する若さ


まず5話については結局のところユウリ1人で復讐だの何だのを乗り越えてしまったわけだが、このことに関して竜也たち男衆が役に立たないことを指摘する感想があった。

個人的な復讐と捜査官としての葛藤、という割とベタなテーマで、ユウリさんが弱さとブレを見せる回かと思いきや、そういう要素も あったものの、意外とさくっとユウリさんが一人で乗り越えてしまい、むしろ
男衆の役に立たなさ
がクローズアップされる展開になってしまいました(笑)

『未来戦隊タイムレンジャー』感想まとめ1

確かに表面上は男性陣が役に立たないのが目立つ展開になっているが、小林靖子は意図的にこの展開を描いているのには間違いないし、小中監督もそれを露悪的に演出している。
だが、これを安易に「男たちがダメンズである」と気軽な断定をしてはならない、何故ならばヒロインが一人でピンチを切り抜ける展開自体は曽田博久が『ゴーグルⅤ』の39話で描いた展開だからだ。
あの話を見てもらった人にはわかるであろうが、桃園ミキが絵本に閉じこめられ火あぶりの刑に処されるのを赤間健一たちは指を咥えて黙って見ている他はない、そのピンチは桃園ミキがくぐり抜けないといけない。
否、もっといえばそもそも『ゴレンジャー』40話で変身不能になったペギー松山の時から、戦隊の女性メンバーは時として一人でピンチを潜り抜けなければならない展開を描くことがある。

その意味でユウリもその伝統に則っているわけだが、ユウリがペギー松山や桃園ミキら先達と何が違っていたかというと「暴走する若さ」という点が挙げられるだろう。
ペギー松山も桃園ミキも絶体絶命のピンチでどうにかしなければならない状況で仲間たちにすら助けを求められず手を貸せない部分は一人で乗り越えないといけなかった。
だからこそ弱音をグッと堪えて感情に流されず理性と正義感で己をコントロールして立ち直り戦うだけの精神的な逞しさがなければ、男衆に混じって戦う資格はない。
それに比べればユウリが抱えている沸き立つ復讐の情念やその乗り越え方、ピンチのハードルは先輩方に比べて下がっていて、少なくとも過酷な試練ではないだろう。

ここで真に論じられるべきはそのような復讐の情念が抑制されるのではなくむしろ暴走していることにあり、最後の最後にユウリの真意が露呈するまでは誰にも止めることができない。
竜也たち男性陣やタックが正論で止めようとすると余計にユウリは反発を起こして自室に閉じこもるわけだが、何故ここまでしてユウリの暴走を描かなければならないのか?
1つには小林靖子自身が『星獣戦隊ギンガマン』で数少ない反省点の1つであったギンガピンク/サヤのキャラが立たなかったことから来る雪辱戦の意味合いがあるだろう。
『オーレンジャー』〜『メガレンジャー』の3年間ダブルヒロイン制だったところから『ギンガマン』で急にシングルヒロインに逆戻りしたため、作り手がそのキャラ立てに迷ったのである。

そしてもう1つはユウリだけが唯一の正規戦士であり竜也たちがほぼ偶然に選ばれた新米のアマチュアであることが挙げられる、要は『ジェットマン』の天堂竜や『カクレンジャー』の鶴姫の発展形だ。
竜も鶴姫もメンバーの中で一番使命感が高い戦士として描かれているが、同時に奥底では大切な人を失ったことで露呈し感情に流されてしまいかねない危うさを兼ね備えていた。
ユウリもまたその系譜にあるために掃除にしろ何にしろメンバーたちが手伝いに来てくれたところで感謝する様子もない、ラストでやっと少しだけ心を開いた。
これは今時流行りのツンデレや塩対応の子が素直になったという安直なものではなく、ずっと余裕がなかった女が1つの精神的昇華をなして小さな目標を達成したために少しだけ周りが見えたのである。

ユウリのキャラクターの造形や抱えている「復讐」というテーマは別段珍しいものではなく、むしろ90年代までの作品群で散々擦り倒されて来たものばかりである。
だが、それを今までの戦隊であればギリギリのところで踏み止まってしまうところを徹底的に暴走し露悪的に描いていくというのが特徴的で、だから男たちの説得にユウリは懐柔されない。
むしろここでユウリが安易に懐柔されてしまったら、それこそありがちな戦隊ものの文脈(個人の抱える問題を組織全体に還元して解決する)に陥ってしまうではないか。
それをギリギリの時点で避けて徹底的にユウリの激情を徹底して描くことによってユウリを物語から解放させるという動きを1つここで果たしている。

(2)家名の縛りが付いて回る竜也


6話において典型的なのは竜也と父親の確執がそうであるように、家庭などというものが竜也にとっては自分を縛る枷にしかなっていないということだ。
ここが面白いところであり、脚本家・小林靖子は『ギンガマン』から一貫して「家庭の幸福」というものに対して一貫して否定的である、懐疑的なのではなく。
『ジェットマン』の井上敏樹は雪室俊一の系譜ということもあるのか、家庭の幸福に対して「懐疑的」ではあっても「否定的」ではなくむしろ「肯定的」である
根っこの部分で実は家名というものを肯定している裕福な立場を描いているのが井上敏樹のだが、小林靖子は徹底的にそのような絆に否定的だ

この話では母親や浅見グループの取り巻きが竜也に対してすごく甲斐甲斐しく神輿に担ごうとするのだが、竜也はそれを迷惑がっている。
そして父親を顔を合わせれば否応無しに口喧嘩に発展してしまうのだが、この親子喧嘩の風景は『ギンガマン』の青山親子に散見された描写の更なる拡張であろう。
青山親子も28話で関係が多少なり是正されるまでは一貫して勇太は晴彦に対して辛辣であり、彼が笑顔を見せるのは優しい理想のお兄さんであるギンガレッド/リョウマの前だけだ
そう、親子の情なんかよりも見ず知らずの赤の他人との関係性の方がいいのだということを小林靖子は最初のメインライター作品から示していたのである。

そのように見ていけば竜也と父親の関係性もそういう文脈にあると自然に理解されるるものであり、これもまた珍しいことではない。
だから家庭という場所は決して竜也にとって居心地の良いところではなく、彼にとっての「居場所」はタイムレンジャー(トゥモローリサーチ)のみだ。
そこだけは竜也が唯一「お金持ちのお坊ちゃん」という柵から解放され、利害関係をさほど気にせず自然体で付き合える心地よい居場所なのだ。
そしてこれは後の「シンケンジャー」「ゴーバスターズ」「トッキュウジャー」でも一貫していて、小林靖子が描く回において「家族」「家庭」は決して肯定的に描かれない

この話の豪華客船でのパーティーにしたってそれ自体はさしたる意味はなく、あくまでもタイムレンジャー5人の潜入捜査という「サスペンス」の場として設けられているに過ぎないのだ。
前回のユウリの殺された両親もそうなのだが、小林靖子がメインを担当する作品、わけてもその作家性が色濃く反映されているこの「タイムレンジャー」で家族なんてものは簡単に崩壊する。
むしろ家庭という居場所を失ってからの方がユウリも竜也も活気付くわけであり、竜也はどこか上滑りしている感じがあるものの、タイムレンジャーであることがアイデンティティーなのだ。
だからこそ父親はそんな風に自分の足で走って行こうとする竜也を引き止めることができず、ただ呆然と「自分もそうだった」とさほど意味のないつぶやきとともに息子の走る姿を眺めるしかない。

竜也にとって家名というものは自分を不利に追いやるものでしかなく、どこまで逃げても血は争えず一生付いて回る問題だが、それが竜也自身の人となりに直接影響するわけではない。
ただ、竜也も竜也で経験値も少なく未成熟な部分があるため、それをうまく消化できずにいるから家出して独立するという形によって抵抗する形でしか表現できないのだ。
それは決して理屈どうこうの話でもなければ、物語やキャラがどうこうといったところではないものとなり、あくまで永井大という役者にそれが表現されることで生きたものとなる。
同時にそれは「戦隊」という枠の中でいかに90年代的な「反集団主義としての超個人主義」を『カーレンジャー』『メガレンジャー』以上に描けるかどうかの挑戦でもあるだろう。

(3)共同体崩壊とタイムレンジャー(トゥモローリサーチ)という「居場所」の脆弱さ


終盤まで一貫する本作の特徴であるが、本作は90年代の作家が散々描いてきた共同体崩壊とタイムレンジャー(トゥモローリサーチ)という「居場所」の脆弱さを描く。
これは『ジェットマン』ですらもなしえなかったことであり、ロンダーズファミリーもタイムレンジャーも「組織」としての体をあまりなしていない。
ロンダーズの囚人たちはドルネロたちにしょっちゅう逆らうし、トゥモローリサーチだって個人事業主が5人集まったベンチャー企業みたいなもので、とりあえずの仮住まいとしてあるのみだ。
したがって、以前も述べたように小林靖子は戦隊における「団結」「絆」というものを決して安直にストレートな「連帯」という幾分ファシズムじみたものに還元しない

その点において他のいずれの作家とも異なる孤独さを持っており、こと『タイムレンジャー』においてはどんどん共同体なるものがあっけなく崩壊していく
そしてその共同体が崩壊した先に何が待ち受けているのかもわからないまま、竜也たちはまだ見ぬ明日への希望と不安を抱えながら生きていくのである。
だが、これは決して「過去」などではなく、まさに「現在」として見ているものの感性を揺さぶるだけのものを持ち得ているのではなかろうか。
特に若い人たちは自分が今どうすればいいのか、どう生きていけばいいのか難しいからこそ、竜也たちの抱える孤独さがなんとなく理解・共感されるだろう。

だが、だからといって本作は荒削りな未熟さを安直に肯定しているわけではないし、また竜也たちのタイムレンジャーとしての活動も劇的なものではない。
あくまでも日常の一環として淡々と描かれるのみであり、だから「タイムレンジャー」はあくまで「日常の断片」としての話が描かれるのみだ。
タイムレンジャーがロンダーズファミリーと戦って圧縮冷凍をしたところで、それがさほど劇的に機能しないのもそういうことだろう。
そこが正しく「戦隊」という文脈から良くも悪くも外れており、徹底的に反抗する「タイムレンジャー」の作品としての強さでもあり、また弱さでもある。

とても危ない橋を渡っている本作ではあるが、これを改めて「戦隊」として論じる動きが少しでも起こってくれることを願う。

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