見出し画像

【デジモンカイザー】孤独であることは果たして悪なのか?関弘美氏の「天才」と「孤独」にまつわる価値観の幼稚さ【一乗寺賢】

『デジモンアドベンチャー02』を見ていて一つ引っかかったのはデジモンカイザーと一乗寺賢という「天才」についての描写や価値観であるが、関弘美は何度かデジモンカイザーを作った理由として9歳で飛び級したアメリカの男の子の話をしている。
「DIGIMON CON2022」に出演された時も以下のような発言をなさっていたので引用してみよう。

あたしが一番驚いたのは、実は、あの新聞に載っていたんですけれども、アメリカの大学で9歳の男の子が飛び級で大学に進学したニューズが載っていたんですね。すごい天才っていうか、すごい子なんだろうなと思いましたけれども、そもそも飛び級でっていうのが日本にはないシステムだから驚いたんですけれども…でもその時にはやっぱりその子を事考えたんです。この子のこれからの人生ってどうなるんだろうなって思って、もちろん天才的な少年だから大学が入ったわけだから専門の研究に突き進んでいくかもしれないけれども…でもこの子は9歳の段階で周りのみんなあの大人でお酒も飲むしタバコを吸うし女の子ともお付き合い者の大学生に囲まれて9歳の男の子は青春を過ごすわけですよね?本来あの彼には同じ年の男の子や女の子の友達が出来るはずだったんけれどもそいう子たちとは違う大人のお兄ちゃんやお姉ちゃんたちと時間を過ごす事になる。で、まあ、果たしてあの大学生が9歳の男の子を友達だと思えるのかとかね。逆に言うと9歳の男の子は多分物凄く頭はいいのかもしれないんだけれどもこの子はすごい孤独なんじゃないかと思ったんです。なんか私たちのような凡人には想像出来ないようなすごい孤独を感じて生きていくんじゃないのかなと思ったわけです。だからそういう事もやっぱり一人の人物を作り上げる時にすごく気になってしまうんですね。ですからあたし、あの新聞の記事のお話を前川さんと吉村元希さんと、二人のシリーズ構成と、あと演出の角銅さんにお話をしたのははっきり覚えてます。

はっきりと言わせてもらおう、余計なお世話だ!

関弘美は自己顕示欲が強いプロデューサーでやたらと脚本に口出しをしたがるお局様気質であることは業界内で有名ではあったが、ここまで勘違いを拗らせていたとは……「おジャ魔女どれみ」では自分をカリカチュアした関先生を出していた程の人だからなあ。
もし自分が小学生の時に関先生みたいな担任だったとしたら確実に学校という場所を嫌いになって、それこそ少年革命家のゆた○んみたいになっていたことは想像に難くない、少なくとも奥底に残酷な見下しが入っていることも含めて。
前々から「デジモン」の人間ドラマがあまりにも酷過ぎるとは思っていたのだが、9歳の子供が大学に飛び級すること自体は何ら問題ないわけで、大事なのはその大学の校風や先生との巡り合わせがいいかどうかである。
そこで合わなかったら小学校に戻ればいいわけだし、アメリカは日本と違ってチャータースクール(従来の学校教育に不満を持った親御さんたちが自分たちで学校を作って教育するというやり方)もあるのだ。

そもそも関弘美という人間は「大学」という場所について大きな勘違いをしている、大学というのはあくまでも「勉学」のために行くところであって決して友達作りや遊び気分で行くようなレジャーランドではない
「でもこの子は9歳の段階で周りのみんなあの大人でお酒も飲むしタバコを吸うし女の子ともお付き合い者の大学生に囲まれて9歳の男の子は青春を過ごすわけですよね?」というのは単なる彼女の一方的な主観でしかないだろう。
この発言からして関弘美自身が在籍していた早稲田大学で勉学よりも酒やタバコ、あるいは部活やサークルの友達といった人間関係に現を抜かす生き方をしていたのがわかるし、それが色濃く反映されたのが「ラスエボ」の太一とヤマトなのかもしれない。
しかし、海外の大学はもちろんそういうスクールカーストはあるけれども、だからと言って年齢で人を差別するようなことがあるかはわからないし、仮に9歳の子供が孤独だとしてもそれを本人が何とも思っていないことだって十分にあり得る。

そもそも小学生だって学校で過ごす退屈な日常に嫌気が差してふと学校の外に遠出をしたくなる瞬間だってあるだろうし、私の場合は物理的にそれが無理な環境だったから我慢していただけで、うんざりすることも沢山あった。
私は関弘美氏の考える「天才」や「孤独」を「悪」と見なしたがる価値観のあり方が受け入れられない、無理してでもその集団にいる人たちと仲良くしなければならないのか?と思えてしまう。
そんな安直な考えからデジモンカイザーや一乗寺賢関連の描写が生まれたのだとすればあまりにも偏見や差別が過ぎるし、一見相手に寄り添っているようでいて、実は奥底で「天才」と呼べる人たちや「孤独」を抱えている人たちを細胞レベルで見下している
正に洞察力や俯瞰で物を見る力には優れていても相手の心情を思いやることが全くできていない高石タケルそのものであり、一部のファンからは「ニチアサの母」なんて称されている人がこんな頓珍漢な発言をしていたとはね。

何より関弘美は何でもかんでも自分が生きてきた人生で築かれてきた価値観や尺度だけであらゆる物事を測れると考えている、否、そうでなければならないと勘違いしているようだがそういう勘違いは現実を知らない新参者のすることである。
友達に囲まれてちやほやされている人気者タイプが能天気に生きているわけでもあるまいし、逆に孤独にひっそりと生きている人でもそれを逆手にとって楽しそうに自由闊達に過ごしている人だっているものだ。
それこそ映画評論家の淀川長治も指摘していたことだが、孤独に生きている人を可哀想だとか憐憫の情を寄せるとかするのは第三者の勝手な思い込みであって、当人はむしろ孤独に生きる方が楽なものである。
少なくとも私に関してはそうである、自分で言うのも何だがこれだけの言語化能力をはじめとする一通りの資質や才能があってフォローしてくれる人もいながら、本質的にはあくまで孤独や自由な生き方を好む。

でもそれで何か問題があるかというと別にそうではないし、むしろ優等生や人気者タイプを見ていると自分以外の人たちにリソースを割かなければいけないからこそ逆に苦労するのではないのかなあと思ってしまった。
それこそ「Vテイマー」の客演回では大輔がタイチに仲間たちとの関係性にうんざりしていて帰りたくないというような本音を漏らしていたが、井沢・やぶの先生から見た大輔は「仲間達に囲まれていながら賢以上に孤独」と解釈したのだろう。
実際そうだと思うし、私が作り手なら何度大輔をあんな狭いギスギスしたしがらみしかない人間関係から解放して自由にのびのびと生きさせてあげようと思ったことか……あの中にいたら大輔の長所は確実に宝の持ち腐れで終わり生かされないままである。
日本以外の世界をきちんと見た上で物を考えたり作ったりする経験をしていないと即座にこういう「リアリティー」を履き違えてわかったつもりになって勘違い発言を繰り返してしまう。

そんな稚拙なものの見方や考え方しかできないで何が「リアリティー」か、「ポケモン卒業生集まれ」かとも思えてならないし、しかもそれを客観的事実であるかのように正しいこととして押し付けるような価値観はもっと嫌いである。
まあそれが今のポケモンと大きな水を開けられた悲惨な現状に繋がっているのだと思うが、こういう事例1つを取ってもデジモンって奥深いようで実はとんでもなく底が浅いなあと思えてならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?