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結局どの層に向けて何を見せたいのかがボヤけていた「シン・ウルトラマン」感想

さて、いよいよこの「シン・ウルトラマン」感想を書く時が来た。「ドラゴンボール超 スーパーヒーロー」同様「何で今更感想を上げるんだよ?」と思う向きもあるだろう。
仕方あるまい、我が仙骨の反応が「今書け」と訴えてくるのだから今書くしかあるまいと思って書くのである、私は誰かに強制されて感想や批評を書くのは性に合わないのだ。
そんな「シン・ウルトラマン」であるが、たった一言で感想を言うならば「結局どの層に向けて何を見せたいの?」というのがはっきりしない作品であったと思う。
別に庵野・樋口コンビの作品だからそう思うのではなく、この出来だったら正直原作の「ウルトラマン」のテレビシリーズを1話ずつ見ていく方がいい。

同じ庵野・樋口コンビで作られていた「シン・ゴジラ」がきちんと原典への愛を入れながらも、中身はきちんとオリジナル作品に仕上がっていて関心したものだった。
あれは元が映画だし、お話や世界観のベースが現実に近い3.11(東日本大震災)と原発問題を土台に作られているから作り手の見せたいものがはっきりしている。
一方で「シン・ウルトラマン」は元が作り手がそもそも何を見せたいのかがはっきりせず、原典へのセルフオマージュがありきなのかオリジナル作品として見せたいのかが不明瞭だ。
あらかじめ言っておくと評価としては「まあわかりやすくまとまっている」ことを前提として、個人的にどこが引っかかったのかを言語化していく記事であることをご了承いただきたい。

テレビシリーズを映画化する際に生じる「ネタの取捨選択」の難しさ


まずこれは方々で言われている問題だが、やはりテレビシリーズだったものを2時間近い尺の映画にまとめる際に生じる「ネタの取捨選択」の難しさという問題がある。
「シン・ゴジラ」との大きな違いはここであり、元が映画であるものの場合構造そのものに手を加える必要はなく、世界観や表現の手法を現代風にアップデートするだけでいい。
原典の「ゴジラ」は元々映画からスタートしたシリーズだったし、根幹にある「原子力発電のようなオーバーテクノロジーに依存していたらいずれ身を滅ぼすかもしれない」は遵守されていた。
しかもそれだけではなく、ゴジラがまるでポケモンのように進化していき、後半に至って段々と手のつけようがない存在へ凶暴化していくプロセスもわかりやすく示されている。

まあ最後の解決策がまさか「電車でGO!」になるとは思わなかったのでそこで若干肩透かしを食う感じではあったものの、オーバーテクノロジーに対する向き合い方としてはベターであった。
ゴジラが人間から生まれた悲劇の産物であるならばそれを無理に力で倒すのではなく受け入れつつ被害を最小限に食い止める形で向き合うとしたのはリアリティある回答であろう。
これは正に昭和時代の原典となる「ゴジラ」から一歩先のメッセージを打ち出すことができた瞬間であり、正しい意味で原典の換骨奪胎となる作品だったのではないだろうか。
そのため似たような奇跡を特撮ファンがこの「シン・ウルトラマン」に期待していたのであろうが、「ゴジラ」と違って「ウルトラマン」は元がテレビシリーズである。

テレビシリーズを映画化する際に難しいのはネタの取捨選択だが、こと「ウルトラマン」に関しては特に1話ごとのバラエティが幅広く豊富であるために統一するのが難しい。
宇宙怪獣も宇宙人も全く別個の存在として出てくるため、例えば「仮面ライダー」のショッカーや「秘密戦隊ゴレンジャー」の黒十字軍みたいに年間を通した共通の敵が存在しないのだ。
それをどうやって解消するのかと思いきや、異星人たちの作った生物兵器が怪獣であるということにされてしまい、かえって「ウルトラマン」の世界観に広がりがなくなってしまった。
怪獣もまた異星人の下に位置するという矮小な存在に成り下がってしまったわけなのだが、ここは素直に原典の設定をそのまま踏襲して別個の存在にした方がよかったのではないだろうか。

また、後半の要になってくるメフィラス星人とゼットンについても、デザインはまあ賛否両論あって私はテレビ版の着ぐるみの方が好きだが、CGで表現された絵も悪くはなかった。
まあゼットンはサイズといいデザインといいもはや原典のゼットンから離れ過ぎてて「お前誰だよ!?」とまるで「パワーレンジャー THE MOVIE」の悪夢を思い出してしまったのだが(苦笑)


パワレン版の隠大将軍
シン・ウルトラマンのゼットン

しかし完全に地球を覆い尽くし滅ぼしてしまう巨大な生物兵器という存在感はきちんと出すことが出来ていたし、ウルトラマンがそれなりに対処したり攻略法を考えたりもしていた。
原典のウルトラマンが何も出来ず一方的にやられたのに比べると、こちらはまだ禍特対と協力しながら人類が全体で頑張っている感じは出せていたと思うが、それでもやはり原典の違和感は拭えない。

一番の見所はゼットン戦よりむしろメフィラス星人戦


個人的にこの「シン・ウルトラマン」の見所はラスボスとなるゼットン戦よりもむしろメフィラス星人戦であり、ここは役者の演技力も良かったしバトルシーンとしてもそれなりに見応えがあった。
まあ絵の作りがウルトラマンVS異星人というよりもエヴァンゲリオンVS使徒のような感じになっているが、元々エヴァVS使徒自体がウルトラマンVS怪獣だから別に違和感はない。
ここのポイントの良かったところは一連の事件の黒幕がメフィラス星人の仕業であると示されたことによって、原典よりも深くメフィラス星人の「悪」の本質を描いてみせたことである。
これはテレビ版の尺だけではどうしても限界のあった部分であり、山本耕史の胡散臭い怪演によってそのデザイン共々より不気味で悪質な怖さが際立っていたのではないだろうか。

本作において描かれたメフィラスの悪の本質とは即ち「他者を自分の側につけてペットとして管理下に置く」という、詐欺師と宗教の教祖を合体させたような存在である。
表面上穏やかな紳士のように振る舞っておきながら、その実地球人を言葉巧みに騙して自分側に引きつけようとするのは現代でなければ描けない複雑な悪の構造だ。
原典のメフィラス星人もサトル少年やフジアキコ隊員のような女子供といった「弱さ」の象徴とされるものを自分側に籠絡しようとしたが、ウルトラマンによって阻止された。
「お前は人間か?宇宙人か?」と聞かれた時にハヤタは「両方さ」と答えたわけだが、原作のメフィラス星人はあくまでウルトラマン=ハヤタ隊員の引き立て役として描かれている。

つまり原典の「ウルトラマン」ではテレビの尺や時代性も相まって描き切れていなかったメフィラス星人の複雑な「悪」をじっくり丁寧に描くことが出来たのだ。
これは本作ならではのオリジナル要素としてよく出来たところであり、徹底した知略によって人類を容赦なく追い詰めていくメフィラスの暗躍ぶりは本作で最も褒められるべきポイントだろう。
そこで描かれた解決策というか突破口が神永が浅見の匂いを辿るという変態行為によるものだったのは正直悪趣味で好きではないが、ウルトラマンよりむしろメフィラスの方が存在感があった。
しかもこのことがラストで光の星が最終兵器として繰り出すことになる天体制圧用最終兵器ゼットンのきっかけにもなったのだから、本作のMVPにして屋台骨ではないだろうか。

このメフィラスが持っていた複雑な悪はそれこそ庵野監督が「エヴァ」「シン・エヴァ」で得意としていた厄介な悪の描写の経験が役立っており、非常に良く出来ていると思う。
原典だと一面的にしか伺い知ることのできなかったメフィラスの持つ悪がここまで立体的になり得たのはまさに映画という2時間近くの尺があったからこそである。
それこそ「ドラゴンボール超 スーパーヒーロー」のガンマ1号2号が原作の人造人間17号18号を超えてみせたように、本作のメフィラスも原作のメフィラス星人を超えることが出来た。
ここに関しては私は本作の文芸として評価するべきポイントであり、むしろこれを見ることが出来ただけでも私は本作に満足してしまったものだ。

ウルトラマン側の心情を描く必要はないゼットン戦


そしてここからが個人的にいけ好かなかったのだが、ラストのゼットンを光の星が繰り出した天体制圧用最終兵器に改変してしまったのはどういう了見だったのだろうか?
確かに原作のゼットンの設定は謎に包まれたブラックボックスの要素が多く、今見直しても不気味だが不気味だからこそあの存在感を打ち出すことが可能になった。
ところが、本作のゼットンは寧ろ光の星が「地球人類何をやらかすかわからねえから潰そう」なんていう風にしてしまったことで、かえって安っぽくなってしまったように思う。
もちろん原典の「ウルトラマン」の解釈に基づくとこの設定自体は間違いではないのだが、個人的にはどうにも胡散臭さが増してしまい、スッキリしない結末となった。

ラストのゼットン戦ではウルトラマン=神永が地球および地球人類に対する愛着があったためにゼットンを迎え撃つ構造となるのだが、この描写は個人的にあまり評価していない。
ウルトラマンがこのような「光の星の住人としての使命=公」と「地球人への愛着=私」で葛藤すること自体が原点から悪い意味で逸脱したように思えてしまうからだ。
ここはどうしても原典との乖離が生じてしまったところであるが、原典の最終回でウルトラマンが倒せなかったゼットンを科特隊が倒すのには大きな意味がある。
それは原典のウルトラマンからの独立を果たした科特隊が自分たちの開発したものでゼットンに打ち勝ち自立を果たすことにテーマが置かれていたからだ。

これは即ちいつまでもアメリカに依存し続けている日本人への警鐘を鳴らしていた訳であり、光の星およびそこに住んでいるウルトラマンはアメリカ人のメタファーということになる。
そのため今回のような解釈だと、「日本は危険だから核兵器で滅ぼしてしまえ」と決断を下したアメリカ人に対して「いやそれは辞めてください」と日本人として帰化したアメリカ人がアメリカの決断に反対するようなものだ。
ゼットンを光の星が繰り出す兵器という設定にしてしまったことでかえってラストの方で「あり得ないだろうこれは」というような、悪い意味でのリアリティのなさを感じさせてしまった。
それにウルトラマンが地球人に愛着を抱くようになるという心理描写をわざわざやる必要はなかったと思う、元々ウルトラマンは地球を守ることで人類が好きなことは言わなくてもわかるからである。

ゾーフィ「無駄な抵抗は辞め、静かに人類の粛清の時を待て。ウルトラマン」

神永「いや、人間を信じて最後まで抗う。それが私の意思だ」

このやり取りからに要するに「シン・エヴァ」劇場版のラスト、神=父・ゲンドウがもたらす運命に抗い両親からの卒業を果たす碇シンジ=エヴァ初号機の卒業のウルトラマン版をやりたかったのはわかる。
しかしそうなると光の星の住民たちは自分たちを神だと思い込んでいる危険な種族という風になりかねず、原作の最終回をこのような形で改変してしまった理由がどうしても腑に落ちない。
別にそういうテーマを描くなとは言わないがとても「ウルトラマン」という作品の枠で描ききれるものではないし、このテーマを描くなら変に原作のオマージュなどせず世界観や話を一から作るべきである。
オマージュやパロディはあくまでも「手段」「道具」であって「目的」にはならないのだし、散々予告などで煽っておいて結局いつものパターンかとかえってガッカリさせられてしまった。

原作ファン向けなのか、それとも一般大衆向けなのかはっきりしない映画


まとめに入るが、本作は結局のところ原作の「ウルトラマン」が好きな特撮オタク・ファン層に向けた作品なのか、それとも一般大衆向けなのかというターゲット層がはっきりしない作品だった。
原作ファン向けにしては要らない設定改変が多く世界観が縮小化してしまっていたし、一般大衆向けというエンタメ路線として見ても「シン・ゴジラ」程の突き抜けっぷりが足りていない。
表面は確かに綺麗にパッケージングされているし原作の世界観やテーマをリスペクトしつつも新解釈の「ウルトラマン」を生み出そうという気概はそこそこに感じられる。
だが、庵野・樋口をはじめとする作り手がなまじ原作への愛や思い入れを持って本作を作ったことがかえってピントのボヤけた同人作品のような印象を与えてしまったのではないか。

「シン・ゴジラ」のように最初は小さかった怪物がどんどん進化していき、それに対して人類がどう立ち向かって行くべきか?というスペクタクルやワクワク感は本作にはまるでない。
原作の話の中から映画として使えそうなネタを拾って、同じようなテンポでイベントが作業ゲーのように進んでいくのみで、メインとして何を見せたいのかが全く伝わらないのだ。
そもそも私はテレビシリーズをただ切った張ったした総集編としての映画版を「映画」として認めていないのだが、それはテレビと映画ではまるで作りが違うからだ。
39話分もある話を映画にしようというのであれば原作のネタを切った張ったするのではなく、改めてしっかりオリジナルの設定やストーリーを用意して一本のストーリーとして描くべきだった。

だが、それ以上に問題なのはこんな綺麗な同人作品のレベルでも近年のスーパー戦隊シリーズなんぞより遥かにクオリティが高いように見えてしまうということである。
下手なプロよりも熱心なファン・オタクの方が面白いものが作れるというのは間違ってはいないが、それはものまね芸人が本人よりも本人っぽく見えるのと同じことではないか?
「愛国戦隊大日本」の時からそうだったが、庵野監督は結局のところ原典となる作品へのオマージュ・パロディありきでなければ作品を作れないということが再び露呈した。
それを悪いとは言わないが、私が本作で見たかったのはそんな原作に改変をゴテゴテと付け足して綺麗に見せた同人作品ではなく、本当の意味での令和に向けた換骨奪胎となる新しいウルトラマンである。

良いところだって確かにある作品だが、それでも私は本作を見るくらいならやっぱり原典の「ウルトラマン」を見直した方が断然マシだと思いAmazon Primeで原作を見直したのであった。

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