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この星をなめるな?『動物戦隊ジュウオウジャー』の設定のつまずきと香村純子の作家性

『鳥人戦隊ジェットマン』で始まったスーパー戦隊シリーズの解体は『星獣戦隊ギンガマン』という作品をもって無事に再構築され、ここにスーパー戦隊シリーズのニュースタンダード像が出来上がった。
しかし、それが決して喜ばしくない面も多々あって、本作を担当した小林靖子も含めてだが、以後のスーパー戦隊シリーズは多かれ少なかれ「ギンガマン」を真似するようになってしまう。
わかりやすいところでいえば『百獣戦隊ガオレンジャー』がそうだが、それを更に希釈したような作品は沢山あり、シリーズ40作目の『動物戦隊ジュウオウジャー』もその1つだ。
それこそ去年久々にYouTubeで配信されていたため密かに全話見ていたのだが、思えばこの作品は1・2話の立ち上がりの設定の時点で詰められておらず、破綻してしまっている

その皺寄せは主人公のジュウオウイーグル・風切大和に来ており、2話のサブタイトルにもなっているのだが、彼はジュウオウジャーに変身するたびにこう叫ぶ。

「この星をなめるなよ!」

いや、お前こそ歴代のスーパー戦隊をなめるなよと言いたいところなのだが、それ以前の問題として誰もこの言い回しがおかしい事に気付かないのだろうか?
「○○をなめるな」は自分の中に大事にしているものや誇り・美学があって、それを敵側から愚弄された時に使う表現であり、罷り間違ってもヒーローの口上として使うべきものじゃない。
ということはこの表現はデスガリアンが地球を蹂躙した上で愚弄し大和が地球人としての誇りや尊厳を傷つけられるという前段階がなければ成立しないはずの表現である。
ところが、序盤数話かけてみても大和の中にそのような地球人としての誇りや尊厳が描かれている感じはなかったし、他のジュウマン達も別にそれに心動かされたわけじゃない。

確かに「俺たち地球の生き物は、どっかでみんな繋がって生きてるんだって」と思いを口にしているが、これはあくまで幼少期のアハ体験が大和の中で美化されているに過ぎないのである。
それどころかジュウマンに首輪をかけて畜生扱いしていたし、デスガリアンが街中で暴れている時もろくすっぽ考えずに無策で突っ込み返り討ちに遭い、ジュウマンが力を貸す。
しかも大和もジュウマン4人も使っているのは地球から発生している力ではなくジュウランドという全く別の世界の力であり、それなら尚のこと「この星をなめるな」というセリフに重みがなくなる。
宇都宮Pも香村純子も「ゴーカイジャー」「ウィザード」で一緒に仕事をしていてそれなりに東映特撮・スーパー戦隊シリーズの仕事のノウハウは分かっているはずだ。

ヒーロー達の言動・行動とそれを支える設定が完全に乖離しており全く一致していないのが「ジュウオウジャー」の最初の躓きであり、改めて「設定」は大事だと思う次第である。
それこそ「○○をなめるな」という言い回しは「ドラゴンボール」のピッコロ・ベジータが使ったことがあるので、画像と共に実際の使用例を見てみよう。

まずはピッコロが地球人を愚弄し蹂躙するベジータに対して苦々しく口にしたものだが、この時のピッコロはまだ「悪」の心を持ちつつも少しずつ地球人に寄り添っていた。
それは孫悟空に対して図らずも魔貫光殺砲で復讐を果たしたこと、そしてその忘れ形見である孫悟飯を育てて情が移ったことで「地球人としての誇り」が出たのであろう。
続いてナメック星編のベジータのセリフがこちら。

フリーザ軍のザーボンとの再戦で劇的にパワーアップしたベジータはサイヤ人の誇りを口にして戦うのだが、このセリフに重みがあるのはベジータがサイヤ人の代表・象徴だからである。
人造人間編で「サイヤ人の王子」という設定が付加されたベジータだが、元々このナメック星編の物語が展開されるよりもかなり昔に惑星ベジータはフリーザの手で滅ぼされた。
ベジータ達サイヤ人はそれとは知らず嘘の情報を伝えられ良いように利用されていたわけだが、サイヤ人とフリーザ軍の関係性は悪の戦闘民族がより巨大な悪に利用されているだけである。
しかし、ベジータ達だってフリーザ軍に従っているものの星の侵略を嫌がっているわけではなく、サイヤ人の誇りや意地はありつつも本性は残虐で獰猛な生き物だ。

何が言いたいかというと、善人であろうと悪人であろうと「〇〇をなめるな」というセリフは誇り・美学があり、それを敵側が愚弄する描写がなければ成立しないのである。
翻って「ジュウオウジャー」の風切大和はそんな地球人の代表・象徴などではなく、精々が王者の資格を得てイキってるだけの動物愛好家風情でしかない。
少なくともギンガの森の民みたいに特別な環境で来るべき宿敵との戦いのために臨戦態勢で準備してきた戦闘民族ほどの根強い思想はないのである。
高寺Pがギンガレッド・リョウマを風切大和のような獣医に設定しようとするも撮影の負担で無理が生じてギンガの森の民に変更したそうだが、本当にそうなってよかった。

スーパー戦隊シリーズに限らないが、作品を作る上で大事なのは物語・キャラクター・変身アイテムなど様々な要素があるが、一番大事なのは「設定」である。
「設定」とは作品の骨組み・根幹であり、ここがきちんとしていなければどんなに優れているように見えたってどこかでボロが出て破綻してしまう。
しかもこれが香村純子のメインライターとしてのデビュー作なのだから、悪い意味で香村純子の作家性が詰まった作品なのではないだろうか。
彼女は所詮どこまで行こうと小林靖子の真似をやろうとしては失敗している「鵜の真似をする烏」であり、良くて同人作家止まりである。

まあ荒川稔久と一緒に「アキバレンジャー」なんて低俗なB級パロディ作品を作ってるような人だし、元々そんな人なのかもしれない。
香村純子は「ゴーカイジャー」の20話「迷いの森」から高く評価されるようになったらしいが、それは一次創作の能力ではなく二次創作の能力の評価ではないか?
そもそも「迷いの森」が評価高いのは当たり前である、大元の「ギンガマン」の二十六章「炎の兄弟」自体が伝説級の神回なのだから、よほど下手を打たない限り失敗しようがない。
個人的にはむしろ「炎の兄弟」の猿真似をやってあの程度のクオリティーしか出せないのかという不満すら持っていたくらいだからなあ。

そう考えると、小林靖子が高寺Pの怪獣ラジオで言っていた「今「ギンガマン」のような作品は書けない。ああいう真っ直ぐな主人公たちは書けない」と言ったのは単なる謙遜ではないとわかる。
彼女は「ギンガマン」が余りにも偉大なヒット作にして後世の戦隊に様々な影響を与えた傑作だったからこそ、それが成功体験として自分を苦しめる毒にもなるとわかっていたのだ。
だからこそ「タイムレンジャー」「シンケンジャー」「ゴーバスターズ」「トッキュウジャー」とただの1度も「ギンガマン」と同じ作品は生み出さなかった
一方で香村純子は小林靖子がそういうレベルの高いところで物を考え作っていたことすら知らず、その成功法則の表面上を真似てれば自ずとヒットしてしまったのである。

確かに先人の真似をするのは我流でやるよりも遥かに伸びるのは早いが、それはあくまでも「手段」であって「目的」にはならないのだ。
どうも香村純子は「ジュウオウジャー」「ルパパト」「ゼンカイジャー」といったメインライター作品を見るに、小林靖子に成り代わろうとしているのではないか?
だが、どこまで行こうと所詮は鵜の真似をする烏、元々作家として持っている自力も努力量も全然違うのだから成り代わるなんて不可能である。
そんなことをこの「ジュウオウジャー」を見ながら感じ取ったわけだが、これのどこが面白いんだろうね?

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