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越前リョーガの存在意義は「新テニスの王子様」のアンチテーゼか?

今回は越前リョーマの兄・越前リョーガの話ですが、まだ全貌を露わにしていないものの、何となく決勝S2は越前兄弟の因縁の対決と同時に実質の「新テニ」のテーマの完結ではないかと思いました。
というのも越前リョーガ自体が旧作の幸村精市がそうであったように作品全体の影というかアンチテーゼではないかという考えが私の中に擡(もた)げてきたからです。
「五感剥奪」ならぬ「能力剥奪」というのが現時点でわかっている越前リョーガの能力ですが、これ自体が同時に「新テニスの王子様」を含むジャンプ漫画に一石を投じているのではと思います。
まあぶっ飛んだ演出が多い「テニプリ」にそんな高尚なものを求めてもなあというのは重々承知ですが、一方で南次郎が言うように「目に見える側」に囚われているうちはまだまだです。

カフェオレ・ライターさんの記事でも言及されているように、「テニスの王子様」はこの23年で能力や強さのインフレが進み、特に手塚ゾーンや無我の境地が登場してからその傾向が強くなりました。
しかし、これは旧作をリアタイで見ていた時から思うのですが、テニプリはジャンプ漫画の王道である強さのインフレに沿っているように見えて時々違います
わかりやすい例だと、関東初戦の氷帝戦手塚ゾーンやら樺地のコピーテニスやら古武術やらムーンサルトやら登場させておきながら、その次の六角戦は割と普通の試合でした。
まあ正確には六角戦でもダッシュ波動球とか菊丸の残像拳(分身)とか色々やってはいますが、六角自体の実力は氷帝より下なのでそんなに強くありません。

そして少しまともになったかと思いきや決勝の立海戦で今度は無我の境地だの赤目だのといったトンデモ能力バトルに突入するので、読者はそれに悪酔いしてしまうのでしょう。
全国大会では更に無我の奥にある3つの扉だの悪魔化だの氷の世界だの五感剥奪だの同調だの様々な能力が出てきましたが、実際のところはそんなにインフレしていないのかもしれません
現在連載中の新テニでも漫画の演出としてトンデモな部分が目立つだけで、物語のテーマや根幹の部分においてはもう旧作の段階で全て語り終えている気がします。
「ドラゴンボール」が実質的に孫悟空VS帝王フリーザ様で物語のテーマとして完結したのと同じように、「テニスの王子様」のテーマ自体は越前リョーマVS幸村精市で完結したのです。

「テニスの王子様」のテーマは何かというと「勝ち負け」「強さ」という表面的な概念からいかに脱却して「テニスを楽しむテニス」という目に見えない心の本質に到達できるか、にありました。
そのテーマはテニスマシーンであった越前リョーマが青学の仲間たちと出会う中で真のテニスプレイヤーになり、天衣無縫の極みに到達するまでの物語として表現されています。
今日に至るまで実に多くの技や能力アップが出てきたわけですが、大別すると「能力アップ」「球の回転操作」「知略」の3つが挙げられ、後は細かい派生があるのみです。
表面上の様々なトンデモ能力・演出に反して強さのインフレ自体はそこまで大きく起こっているわけではなく、また能力バトルの切った張ったを真っ向から否定する展開も多々あります。

例えば関東大会決勝S1の越前VS真田や全国大会氷帝戦S1の越前VS跡部は最初こそ能力バトルでしたが、最終的にはそれを封じ込めた単純なラリー合戦に落ち着きました。
まず越前は真田の風林火山に同じ風林火山の弱点となる属性をぶつけることで封じ込め、また跡部の氷の世界も擬似南次郎ゾーンを繰り出すことで攻略したのです。
公式戦では基本的に無敗で有名な越前リョーマですが、実は相手を完全に圧倒して勝った試しはあまりなく、天衣無縫の極みで幸村を圧倒した展開はむしろ珍しい例でした。
あれは泥仕合では決着をつけにくいからこそ天衣無縫の極みで圧倒する他はなく、しかしその天衣無縫も幸村は盛り返し始めるという兆しを見せていたのです。

以前にも考察しましたが、天衣無縫の極み自体はあくまでも「テニスを心から楽しむ」という精神状態の具現化に他ならず、「強さ」「勝ち負け」とは別の次元にあるものでした。
だからあの時幸村の心が折れずテニスに対する本質を掴んで常勝や立海三連覇の呪縛から解放されていたら、もしかしたら逆転されて負けていたかもしれません。
そしてそれは天衣無縫の極みになる前も同じであり、もし幸村の五感剥奪がなかったら越前は才気煥発の極みと百錬自得の極みを使った応用技で勝っていたかもしれないのです。
しかも越前はライバルたちとの戦いで記憶を取り戻すために体力を消費していますから、その状態で幸村とあそこまで渡り合える時点で十分勝ち目はありました。

五感剥奪にしても「テニスが楽しかったという自分の原点」を思い出すことでリョーマは天衣無縫の極みに到達して乗り越えたわけで、きっかけは意外に単純なものです。
だから、よくよく考えてみると越前リョーマが倒してきた格上の相手をはじめ様々な「天才」として出てきた登場人物も純粋な実力では大差ないのかもしれません。
アニメオリジナルの関東大会後の合宿編で大石と越前が言っていた「テニスの目的は相手よりも一球多くボールを入れること」が全てだから、威力のあるサーブやスマッシュは単なる手段でしかないのです。
私も経験者だからわかりますが、テニスで一番恐ろしいのはスマッシュでもサーブでもなく、どこに打っても的確に返してくることであり、一番楽しいのはラリーが続く瞬間です。

これは高校生が出てくるようになった新テニにおいても大きく変わることはなく、無没識だのブラックホールだの黒色のオーラだの風の攻撃技だの色々出て来ますが、それが勝敗を分ける決定打とはなりません。
現に幸村の零感のテニスも赤也の悪魔と天使を融合させた天衣無縫狩りも確かに天衣無縫対策としては凄いかもしれませんが、それでも幸村は手塚に負け、赤也もドイツ戦に勝ちはしたが不二に1-6で惨敗しました。
なぜかというと幸村も赤也も、そして真田も柳も立海大のエースたちは皆「負けてはならない」という呪縛からは解放されましたが、「天衣無縫の極み」の本質には全く近づけていません
そもそも「どうやって天衣無縫の極みを攻略するか?」という発想自体が東大の二次試験対策みたいで、力で圧倒するという歪んだ真っ直ぐさは健在です。

そしてそれは無没識だの阿頼耶識だのといった大乗仏教をモチーフとした能力に固執している徳川や10円先輩、亜久津なども同じようなものでしょう。
確かに日本を背負って世界と戦う覚悟は立派といえば立派ですが、でも「テニスの王子様」としての最適解は「自分のためにテニスを楽しむ=天衣無縫の極み(矜持の光)」です。
だからこそ許斐先生はそういった能力バトルに偏重した作風やジャンプ漫画全体を覆う風潮に対して越前リョーガを出すことで一石を投じて「新テニ」そのものの世界観を崩しにかかっているのかなと。
実際、霊感のテニスも風の攻撃技も全て越前リョーガの能力剥奪の前には無力と化してしまうわけで、そりゃあ10円先輩が危険視してあいつとは関わりたくないというわけです。

そんなリョーガの能力剥奪を弟のリョーマは「卑怯なテニス」「倒す」と言い切ってみせたわけであり、ここまで活躍の少なかった主人公・越前リョーマを決勝S2に持って来たのはそれが理由でしょう。
新テニのアンチテーゼとして描かれた自分の兄を倒すことで今度は兄を救済し、あらゆるテニスを肯定するために越前は不二のカウンターテニスを破る必要がありました。
そしてだからこそ許斐先生は越前と不二の再戦でお互いの得意技を全て潰し合って純粋なテニスの腕で勝負させ、その上で越前が不二を経験値や意識の差で上回ったのでしょう。
思えば新テニに入ってからのリョーマは光る打球以外の特別な強化をしていませんが、それはきっとしらこいジャンプ漫画の主人公のセオリーに陥らせたくないという許斐先生のこだわりです。

まあこの辺りに関しては現段階だとあくまで予想でしかないし、許斐先生はわれわれ読者の想像の斜め上を常に行かれる方なので、これが合っているかはわかりません。
そもそも越前が本当にこのままS2で登場するという保証もありませんから、あくまでも決勝戦が全て終わってからまた考察してみます。

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