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青学の柱の越前リョーマと手塚国光のプレイスタイルが何故対戦相手に影響を与えるのか?「天衣無縫の極み」に到達できたのが旧作では何故越前リョーマだけだったのか?のまとめ

さて、今回は今まで語ってきた「テニスの王子様」「新テニスの王子様」の双方を兼ねた「天衣無縫の極み」に関する1つの結論を私なりに出してみます。
まず本記事をご覧頂く前にこれまで私が書いてきた記事を一通り目を通していただければ幸いです、今回の記事は今まで語ってきたことのまとめ・総論として書くものです。
Twitterでも散々見解は呟いてますのでそちらも合わせてご覧ください。

越前リョーマと手塚国光のテニスは対戦相手の本質を映し出す「鏡面」である


まずこれは良くも悪くも、なんですが越前リョーマと手塚国光のテニスは対戦相手の本質を映し出す「鏡面」として描かれており、だからこその「青学の柱」なのです。
柱、もっと正確に言えば「大樹の御神木」といえるくらい大地にどっしりと根を張っていて何があっても他所のことでは揺るがないテニス、それがこの2人の本質ではないでしょうか。
以前の記事で「テニスの王子様」は「青学が如何に全国優勝するか?」ではなく「いかにライバル校が青学(の越前と手塚)を攻略するか?」の物語だと書きました。
すなわち、徹底した通常のスポーツ漫画の逆張りで描かれているわけであり、越前リョーマと手塚国光の2人を許斐剛先生は作品の「軸=柱」としたわけです。

以前に先生がインタビューで越前リョーマについて「みんなが安心できる絶対の軸・求心力を作りたかった、それが越前リョーマ」ということを仰っていました。
その絶対の軸・求心力というのが「新テニスの王子様」のフランス戦で「希望(ホープ)」という形で言語化されましたが、実はこれは手塚国光にも当てはまります。
越前リョーマと手塚国光の2人のテニスが何故強いかというと、それは彼らの曇りのない輝いている瞳に加えてプレイスタイルが対戦相手に本質を問うものとなるのです。
「テニス、楽しんでる?」「あと100ゲームやる?」「そんなお前の勝利を部員たちは望んでいるのか?」「お前の覚悟はそんなものか?」と言葉でもプレイでも問いかけてきます。

天衣無縫の極みに到達する前から既に彼らはプレイスタイルを通して対戦相手の本質を映し出し、自分のプレイスタイルに嘘や打算がないかを厳しく詰めてくるのです。
だからそこにわずかでも邪心や主観を挟んでしまうと上手くいかないし、また心の真ん中に「テニス」が来ていないと対戦相手は焦燥・狼狽してしまう結果となります。
特に跡部景吾・真田弦一郎・幸村精市の手塚国光に並ぶ最強の3人はどっちとも戦いどっちからも多大な影響を受けており、むしろ彼らの方が人間性の核を曝け出すのです。
何故なのかというと、跡部景吾さまと真田幸村にはそれぞれ形は違えど心の真ん中にあるものが「テニス」以外のもので形成されており、「テニス」が心の真ん中にないからでしょう。

跡部様は家系の教えとして叩き込まれた帝王学がもたらす「勝者は敗者を意のままにする=氷帝テニス部200人の頂点に立つ者」というノブレスオブリージュ(高貴なる者の義務)があります。
そして立海の真田幸村には幼少期からの幼馴染としての絆があり、それが「テニスに勝った」ことで形成され、立海の環境の中で「立海三連覇」として形成されていきました。
そう、純粋にテニスが好きで楽しいからテニスをする青学の柱コンビと違って、氷帝と立海の真ん中にあるものは「誇り」「常勝」「チームの絆」といったものなのです。
「テニスを楽しむ」が先にあってその上に「チームの絆」「勝利」があり、それを強さと共に体現する2人の前ではいかなる対戦相手も己の地金を晒すことになります。

天衣無縫の極みに目覚めた越前・手塚・遠山の3人のテニスには真ん中に「自分」がある


これを踏まえた上で今度はそこに四天宝寺の遠山金太郎も含めた「天衣無縫の極み」に覚醒した3人に話をスライドしますが、この3人のテニスには真ん中に「自分」があるんですよね。
それが最近ビジネスやスピリチュアル界隈でもよく言われる「自分軸」というものであって、以前も書きましたがそれは「勝敗」「チームのため」「誇り」とは別軸のものです。
「新テニ」のドイツ戦ではそれを「矜持の光」として再定義したわけですが、どの精神派生も心の真ん中にあるのは「自分=テニス」という等式が成り立っているかどうかにあります。
自分とテニスが一体化してテニスの神様から最高の祝福を受けてプレイしている状態こそが「天衣無縫の極み=矜持の光」の本質であり、日本の中学生では越前・手塚・遠山の3人が該当するのです。

それが同時に無我の境地に目覚めたはずの真田幸村や赤也、無我の奥の扉の1つである才気煥発の極みに到達した千歳千里が天衣無縫の極みに到達できない理由付けにもなっています。
無我の境地を「体力を無駄に消費するだけ」と無価値なものとして切り捨ててしまった立海の天才たち、そして九州二翼の絆があり自分の限界点を決めてしまっていた千歳は自らを縛り付けているのです。
「テニス」と「自分」が一体化しておらず別の条件付けで自分の可能性や枠を狭めてしまい可能性を模索することを諦めてしまった時点で彼らは天衣無縫の極み辿り着く可能性を放棄してしまいました。
それは「新テニスの王子様」でドイツ戦前に赤也が天衣無縫の越前にボコボコにされて「何で俺は天衣無縫になれねえんだよ?」と苦悩していたところからもわかるでしょう。

以前に越前リョーマの暗黒進化版として描かれたのが切原赤也である、ということは書きましたが、そもそも充血モードや悪魔化以前の心構えの時点で赤也は天衣無縫から遠い人間です。
関東大会決勝S2の不二戦で描かれた赤也の軸とは「立海ビッグ3を倒してNo.1になること」という卑近な目標であり、その為に他の対戦相手を潰してでも勝とうとラフプレーを働いて来ました。
それは一見自分軸のように見えて、立海ビッグ3に心を呪縛されてしまっており、ちっともテニスを楽しめておらず結局は「立海三連覇」という頑強な勝ちへの執着から解放されていません。
「テニス」の前に他の思考の枠によって自分自身を痛めつけてしまっているわけで、そんな状態ではテニスを心から楽しんでやる越前・手塚・遠山に敵うわけがないのです。

チームの為だとか優勝するだとかそんな難しいことをごちゃごちゃと考えず、ただ無心にボールを追いかけて自分を限界まで追い詰め、そこに自分の存在意義を見出すこと。
「テニスを楽しむテニス」という「天衣無縫」はまさにそんな状態であり、それが孔子先生の提唱する「才ある者は努力する者に敵わず、努力する者は楽しむ者には敵わない」なのでしょう。
この意味で越前リョーマが「勝つためのテニス」を跡部戦で極めた後に「楽しむテニス」の体現者にして自分の潜在意識の鏡面である遠山金太郎と一球勝負をしたことは大きいのです。
また、手塚国光がその前に千歳千里という「無我の奥を極めた者」として戦い百錬自得と才気煥発の併用を可能にしたことも物語上の必然としてそう組み込まれています。

旧作の全国大会で手塚国光と遠山金太郎が天衣無縫に到達できなかった理由


ここからが本題ですが、では何故「新テニスの王子様」で天衣無縫の極みの扉を開くことが出来なかったのかというと、双方に欠けていたものが正しく正反対だったからです。
まず手塚に欠けていたのは「テニスを楽しむ心」であり、全国大会の時には百錬自得を取り戻し才気煥発も開き、更には零式サーブや手塚ファントムまで開眼しました。
それでも天衣無縫に辿り着けなかったのは「青学の柱」という呪縛が心の真ん中にあって、それを除去することが出来ず肩の荷を降ろすことが出来なかったからです。
その呪いをかけた張本人である大和部長が現れることで手塚はようやくその苦しみから解放されるのですが、残念ながら真田との対戦ではそこに至ることはできません。

じゃあその逆の「楽しむテニス」を体現しているはずの遠山金太郎が何故天衣無縫に到達できなかったかというと、手塚や越前とは逆で「背負う戦い」を経験していないからでした。
それが同時に六角の連中や氷帝の芥川ジローが天衣無縫を開眼できない理由にもなっており、天衣無縫の極みが提唱する「楽しむテニス」とは「楽しさ」だけでもたどり着けません
ずっと「楽しい」状態が続いてそれが当たり前になっていると、それはそれで「楽しさ」そのものに対する有り難みが失われてしまい、別の停滞を生み出してしまうのです。
遠山金太郎はなまじ越前リョーマとぶつかり、その後幸村精市との戦いで五感剥奪を経験するまで「挫折」「敗北」「テニスの苦しみ」といったネガを経験していませんでした。

「左右極限を知らねば中道に入れず」という名言が仏教にはありますが、「楽しみ」だけではなく「苦しみ」もまた極限まで経験しないと「天衣無縫」には到達できません。
闇を知っているからこそ光が真に強くなるのであり、また真の光が強く輝くためにはその真逆にある闇の怖さや有り難みもまた知っていないと辿り着けないのです。
越前リョーマは切原赤也・真田弦一郎という立海の闇の象徴と既に関東大会で戦いそれを乗り越えたことによって「テニスの苦しみ」も十分に経験しています
遠山金太郎がこの「苦しみ」を知るのは幸村精市が初めてであり、また「新テニスの王子様」の鬼十次郎との出会いが必要ですが、それだけ厳しい試練が待ち受けているのです。

つまり何が言いたいかというと、「自分のために楽しくテニスをする」ことも、そして「チームを背負って苦しさを乗り越えるテニスをする」ことも経験しないといけません
だからテニスの「苦しさ」しか経験してこなかった手塚国光、そしてテニスの「楽しさ」しか知らなかった遠山金太郎は旧作の段階では天衣無縫の極みに到達できませんでした。
この双方の条件を満たしていた越前リョーマこそが天衣無縫の極みに最も適していた訳であり、だから一球勝負で天衣無縫の片鱗を開くことが可能になったのです。
しかし、許斐剛先生は全国大会決勝で天衣無縫の極みを越前リョーマが開眼する為に必要な試練を与えるという容赦ないことをしてきます。

越前リョーガが指摘する「テニスを失う」を既に経験していた越前リョーマ


越前リョーマが全国大会決勝で経験した二重の試練、すなわち「記憶喪失」と「五感剥奪」という二重の心の試練が降りかかることになりました。
「新テニスの王子様」で平等院鳳凰は越前リョーマに「滅びよ、そして蘇れ」と提唱し、更に越前リョーガはリョーマに「テニスを失うぜ、チビ助」と言っています。
しかし、実は平等院とリョーガが違う角度で言っている「滅び=テニスを失う」を越前リョーマは既に旧作の全国大会決勝で通過済みなのです。
だからこそ越前はためらうことなく「あっそ」と言い放った訳ですが、旧作の越前が経験した「滅び」とは精神面の滅びだったのではないでしょうか。

まずテニスを丸ごと忘れてしまったところから桃城・海堂・乾・ライバルズとの戦いの中で越前リョーマは少しずつ自分のテニスを取り戻していきます。
それはまるでバラバラになってしまったパズルのピースを集めて繋ぎ直すように、越前リョーマの中にあったテニスを再構築していったのです。
これによって越前リョーマは再生しましたが、今度は幸村のテニスによって五感を失いテニスをするのも嫌な状態という「闇」に追い込まれます。
越前リョーマが旧作で涙を流すのはここが最初で最後ですが、そこで越前リョーマが思い出したのが「自分にとってのテニスの原点」でした。

最後の最後、越前リョーマは自分がテニスをし続ける理由を続けることで記憶の中にある越前南次郎との再会を果たし、見事にテニスの神様と再会できたのです。
それによって越前リョーマはとうとう「テニスって楽しいじゃん」という原点回帰が可能となり蘇った訳であり、だからこそ越前リョーマの天衣無縫覚醒はそれだけ特別なものであるといえます。
手塚も遠山も新テニで天衣無縫の極みに到達はしましたが、越前リョーマほどの壮絶な「滅びよ、そして蘇れ」を経験していないので、そこまで劇的な感じに映らないのもそれが理由でしょう。
だから越前リョーマは既に精神面での「滅びよ、そして蘇れ=テニスを失っても取り戻す」は通過済みであり、幸村精市は肉体面のそれはまだ完全ではありませんでした。

そして今に至る訳ですが、こうしてみると実力はともかく越前リョーマが経験している試練は実はとんでもなく壮絶なものであり、こういう特別性に強いて言うなら主人公補正があるのでしょう。
越前リョーマが経験していない試練はもはや肉体面での滅びと蘇りですが、それを経験し乗り越えるためのシャルダール戦であり(おそらくは)決勝のリョーガ戦となっているはずです。
光る打球をカウンターで食らって滅び、そこから蘇ってスーパースイートスポットの先を見極め、そしてリョーガ戦の前に大幅強化した不二周助との再戦で才能の限界を露呈させました。
この「勝ちだけど実質負け」を経験した上でのリョーガ戦でリョーマがテニスを失ってそこからどう蘇るかが決勝のS2のテーマとなるのではないでしょうか。

そしてそれを描く為に用意されたのが「阿修羅の神道」という新しい肉体方面の奥義であり、天衣無縫のその先にあるものだと思います。
手塚の物語はドイツ戦のS2で1つの完結を迎えたので、あとは遠山金太郎と並んで天衣無縫の超1年生がどんな答えを出すかで新テニの評価が大きく変わることでしょう。


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