見出し画像

全国決勝で明らかとなった立海が抱える「悪」の本質と越前リョーマが立海に果たしてみせた救済

さて、今回は前回の記事を受け継いで全国決勝の立海戦についての意味を考察していきますが、今回の記事は今まで考察してきたものを吸い上げる形のまとめになるかと思います。
というのも、本記事を書こうと思ったきっかけは青学VS立海に対して異議申し立てがあるという反応を見かけたからですが、別にその感情自体を私は否定しません。
しかし、私としては関東大会同様に全国大会のこの結果には納得しており、その理由も実はかなり論理的に説明できるからです。
今回の解説・考察は全国決勝で明らかにされた立海が抱える「悪」の本質と共にリョーマが幸村をはじめとする立海に対して果たしてみせた救済をここで説明します。

立海が抱える「悪」の本質は「競争原理」の押し付け


結論から申し上げますと、全国決勝で露呈した立海が抱える「悪」の本質は競争原理の押し付けという普遍的な地の時代の社会が抱える闇だったといえます。
「テニスの王子様」が流行した90年代後半〜00年代後期の21世紀初頭は偏差値至上主義をはじめとする地の時代の教育システムに対する懐疑や批判が出ていた時代です。
失敗に終わってしまいましたが、あの当時から「規制緩和」「ゆとり教育」といった言葉が用いられるようになり、人々の価値観も多様化を見せ始めます。
「テニスの王子様」が作られた時代背景もそういうものであったといえ、実に様々な特徴を持った学校が出てくるようになりました。

その中で立海大附属は「王者」と言われていますが、その実態は「軍隊」「ブラック企業」という言葉が似合うくらいの厳しい学校です。
何せ原作者の許斐剛先生ですら40.5巻のインタビューで入りたくない学校の筆頭に選ぶくらいですから、そりゃあ誰も入りたくはないでしょうし私も嫌ですね。
しかしそう思わせてしまうのは立海のキャラやあの残酷な試合展開そのものより、もっと俯瞰して見たときの競争主義の押し付けにあったのではないでしょうか。
勝ち続けていくうちに立海は「常勝」「勝って当たり前の王者」ということばかりが目立つようになり、その中で人間性を歪めていくことが多いのです。

ましてや彼らはまだ中学生という多感な思春期ですから心の揺れ動きも激しく、色々とメンタル面のストレスだってあるでしょう。
これはテニスに限らず勉強でもそうですが、子供が自信を失う時やグレる時は大体周囲の期待がプレッシャーとなって身体的・精神的に追い込まれた時なのです。
立海の場合はまずテニスの強豪校という大枠があって、立海ビッグ3も他のメンバーたちもそのようにして入学してきたものと思われます。
また、人間は実力の上でバラツキがあるところより高いレベルの集団の中で優劣をつけられる方がより強いプレッシャーを感じるものです。

そのようにして親から、学校の先生から「こうしなさい」「いい子でいなさい」「悪いことはしちゃダメ」と教えられた模範的な生徒はどうなるでしょうか?
これは私自身も周りにそういう人がいるからわかりますが、大体小学校〜中学校の時優等生だったり成績が良かったりする子はある時点で落ちぶれていきます
実際に小学校の時は優秀だったクラスの人気者が中学校だとあれよあれよと落ちていき、中学を卒業する時にはもはや見るも無残な落ちこぼれとなっていました。
何故ならば親の期待に応えようと必死に頑張った子は結局「他人軸」で生きているからであり、自分の意思で勉強する楽しさをそこに見出せないのです。

こういう状態が続くと自分より能力が低いものにマウントを取ってしまう傲慢さ、また上との実力差がありすぎるという劣等感に苛まれて自己肯定が低くなってしまいます。
もちろんそれで上手く行く子もいますが、大体の場合は成績の低迷が続いてやる気をなくしてしまい落ちぶれてしまって辞めていくものが大半です。
立海の場合は特に幸村と真田が突出したテニスの才能を持っている秀才と天才ですから、なおのことそのプレッシャーから生じる尊大さと劣等感は半端ないでしょう。
よく「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎれば只の人」という諺がありますが、なんだか立海の将来を考えるとこのことわざのようになってしまう気がします。

つまり、立海はそれほど歪んだ競争原理を部の全員に押し付けていたわけであり、それを象徴するのが幸村精市だったのではないでしょうか。

全国立海の各試合に散見される立海の闇


立海の歪んだ競争原理の押し付けは関東大会では「負けてはならぬのだ!たとえ草試合だろうと、それが立海大附属だ」という真田の鉄拳制裁と赤也のラフプレーに見て取れました。
しかしここまでならあくまで「片鱗」でしかなかったわけですが、その後幸村が病気から復帰して準決勝で赤也を悪魔化させたところからその危険サインは出てきたのです。
あの試合、本来なら余裕で3タテで勝てたものを、敢えて決勝に間に合うように赤也を悪魔化というゾーンの強制解放に追い込むためにわざと負けるという舐めプをかまします。
そしてここからは全国決勝で散見されるあの異常な試合に繋がっていくのですが、あそこに描かれているのはもはや狂気の地獄絵図と言っても過言ではありません。

ここからは試合毎にどういう形で立海の闇が露呈していたのかを分析してみましょう。

未来を見据えている手塚と目の前の勝ちに固執する真田(S3)


まずS3は試合内容自体は極めて競ったものであり名勝負といえますが、ここでの大きな差となったのは未来を見据えている手塚と目の前の勝ちだけに固執する真田の違いです。
もちろん関東大会で越前に無様に負けた後なので負けられなかったというのはありますが、手塚はこの試合に関してはあくまでも通過点としか見ていないでしょう。
氷帝戦で越前に青学の柱を託した手塚は小6の時に完封勝ちした真田と今更対決することに対してさしたる興味があるようには見えませんでした。
それはやたら得意気に吠えまくる暑苦しい真田と冷静ながら奥底に熱さを湛える手塚という違いとなって現れていたのではないでしょうか。

しかしこの試合も順風満帆に勝てたのではなく、幸村から「真っ向勝負を捨てろ」との横槍が入って自分のしたい真っ向勝負ができなかったのです。
勝つためとはいえ自分の持ち味を捨てたテニスをしろという非情な命令が下ったわけであり、この時点で既に幸村は他のメンバーたちからテニスをする喜びを奪っていたといえます。
何とか手塚に勝ちを収められたから良かったもののあくまで結果論、下手すれば真田の選手生命はもちろんテニスに対する情熱すら摘んでしまいかねない状況でした。
一方で青学は手塚と大石がしっかり信頼関係で結ばれていたわけで、もうこの時点で立海の歪みや亀裂・軋轢が生じていて負けフラグが既に立っていたといえます。

ラフプレーを強制された赤也とラフプレーを止められた海堂(D2)


このダブルスがある意味で一番立海の闇が露呈していた試合であり、赤也が悪魔化した原因は青学ではなく味方から「このワカメ野郎」と言われたことです。
これはテニミュのDL7で赤也役の大河元気もネタにしていましたが、この試合で誰が一番可哀想かってボコボコにされた乾ではなく悪魔化を強制された赤也ではないでしょうか。
勝つためとはいえ自分の意思に反したラフプレーによって乾を潰して棄権に追い込んで勝ちを収めるという卑劣なテニスをしてしまっていたわけですから。
もちろん赤也のやったラフプレーだって決して許されたことではありませんが、これは小悪党が更なる巨大な悪に利用されている、要するにサイヤ人とフリーザ一味のようなものです。

何よりも驚きだったのは柳がこの作戦に反対しなかったことであり、かつての幼馴染を甚振ることに心は痛まなかったのか疑問に思ってしまいましたが、だからこそ彼は試合中「乾」と苗字で呼んでいたのでしょう。
そしてもう1つの海堂の悪魔化ですが、これは以前にも考察した通り海堂は青学で一番激昂しやすい性格であることが示されていますが、同時にこれは青学と立海の直接的な対比でもあるのだろうなと。
海堂の悪魔化は青学が強豪校であるが故に一歩間違えれば立海のような非情のテニスをするとんでもない奴らに育っていたかもしれないということの証左であります。
確かに柳と赤也は勝ったものの、こんなスポーツマンシップに反した卑劣な手段によって得た勝ちに果たして何の意味があるのか、それを示していたのではないでしょうか。

幻影に惑わされない不二と幻影に最後まで囚われた仁王(S2)


この試合の一番いやらしいところは幸村が敢えて手塚と白石という不二の心の急所を突くという非常にいやらしいものであることにあります。
仁王のイリュージョンが悪いのでも弱点を突いて勝つことが悪いのでもなく、不二のパーソナルスペースにずかずか踏み込むやり方ではないのが汚いやり方だということです。
幸村は不二を「敢えて二番手に甘んじてきた、手塚は越えられない」と言っていましたが、確かに不二が手塚に依存していたのはその通りだったのでしょう。
しかしその手塚を仁王に擬態させて惑わせて勝とうというやり方をした時点で幸村は完全な失策を犯したことに気づいていません。

不二は一見幸村と仁王の掌の上で踊らされたようでありながら、実は奥底でこれが決して本物の手塚と白石ではないことをしっかり看破していました。
だからこそ不二は零式サーブを打てないのを才気煥発で誤魔化したと見抜くや否や「君は本物の手塚の足下にも及ばない」と一刀両断し、最後に星花火を見せたのです。
確かに不二に勝てそうな相手というと真田・赤也を除けば他にいなかったのでしょうが、だからと言って仁王をぶつけるのはどうなのでしょうか?
それに樺地や一氏がそうであるようにシングルスでコピーテニスをして勝てた試しなどないことは明白なのに、そんな簡単なことも見抜けなかった立海の作戦負けです。

奥の手を隠していた黄金ペアと早めに切り札を切った丸井ジャッカル(D1)


この試合に関してはよく青学が時間稼ぎという名の舐めプをしていたことが批判されますが、それを言うなら舐めプをしていたのは立海も同じではないでしょうか。
実際丸井とジャッカルは黄金ペアが普通に実力で圧倒されるまでは20kgのパワーリストとパワーアンクルをつけていたわけで、関東の時と全く同じ手口です。
まあ関東大会の時はまだパワーリストを外さなくても全国行きは決まっていたため問題はなかったのですが、全国決勝はこれで負けたら幸村に回ってしまいます。
そうなる前に最初からリストとアンクルを外して全力でかかればよかったのに、それをせずに黄金ペアに花を持たせる真似をしたことがそもそもの間違いです。

そして何より最大の過ちは同調(シンクロ)を出された時の対策を全くしていなかったわけであり、青学の舐めプそのものがそこまで大きな問題だと思いません。
ここで立海は関東の時と同じ過ちを繰り返したわけであり、関東でも例えば真田はリョーマが隠し持っていたCOOLドライブによって敗れ去りました。
しかし本番まで越前が隠していたCOOLドライブならともかく、同調(シンクロ)に関しては偶然とはいえ氷帝戦で見せたわけですから、その対策はしておくべきです。
用意周到に準備しているようでいて結局こういう細かいところで詰めの甘さが出てしまったわけであり、これに関してはもう負けるべくして負けたとしかいえません。

競争原理から解放された越前と競争原理に呪縛されたままの幸村(S1)


そんな4試合を全て踏まえた上でのS1ですが、この試合は競争原理から解放されて「テニスって楽しいじゃん」に行き着いた越前と競争原理に呪縛されたままの幸村との対比です。
上記してきた競争原理の押し付けによって歪んでしまった立海のテニスの元凶は全て幸村精市にあったことが示されており、上手いこと物語が収束しています。
回想が挟まれていますが、特に「テニスを楽しくだと!ふざけるな!」と奇しくも真田が口にしたのと同じセリフを幸村も口にすることになってしまうのです。
そう、自分が勝つために真田に対してした行いの罰が天衣無縫の極みによって己に跳ね返ってきたわけであり、ある意味因果応報ではないでしょうか。

五感剥奪とは以前も考察したように自分が難病にかかったことで体感した「テニスをするのも嫌になる状態」の具現化ですが、それは対戦相手だけではありません。
幸村はいつの間にか自分が立海三連覇のために過剰な競争原理を押し付けてテニスをする楽しみ・喜びさえも奪ってしまっていたという事実をリョーマによって突きつけられるのです。
しかもそれは幸村のテニスとは対極にある「テニスを楽しむ」という至高の快楽であり、幸村にとってはこれ以上ない報復であったのかもしれません。
真田はこの試合で越前を「時代が創り上げてしまった悲しき産物」と評していましたが、こう見ると幸村こそ地の時代の競争原理によって魂を歪められた悲しき産物であるといえます。

越前リョーマが立海に果たしてみせた救済


こうして見ると青学の柱にして「テニスそのもの」の象徴である越前リョーマが幸村をはじめ立海に果たして見せた救済の意味が見えてこようというものです。
越前親子の語りは読者にとっても、そして幸村にとっても痛烈な競争主義に対する見事なカウンターになっているのではないでしょうか。

「楽しんでる?」
「テニスを始めた時 日が暮れるのも忘れ夢中にやってたろ。どんなにやられても楽しくてしょうが無かった、あん時は誰しも天衣無縫なんだよ。それが部活やスクールに入って試合に勝たなきゃいけねえ、勝つ為にミスを恐れて安全なテニスを覚えやがる。いつしかどいつもこいつもあん時の心を忘れちまう。実際、世界に行ってもほとんどの奴がそうだったからなー」

確かに「勝ちたい」と思う心は大事ですし競争そのものは決して否定されるわけでもありません、また地の時代によってテニスが更に発展してきた部分もあるのでしょう。
しかし、それは根源的にあるテニスをする楽しみというものを奪ってしまい、蔑ろにしてまでやるべきものなのか?ということであり、実に深い哲学的な問いです。

これは野球のイチロー選手がインタビューで述懐していたことですが、プロの世界に入ると自分が少年の頃にやっていた野球とは違って心から楽しめなくなる現象が起きると仰っていました。
プロの世界に入ると「責任」が付いて回り失敗と向き合うことの連続になるので楽しむという領域ではなくなってくるそうですが、これはおそらくテニスでも勉強でも同じことでしょう。
だから越前親子が指摘する「テニスを楽しむ」は確かに幸村をはじめほとんどの人は「ふざけるな。そんなのは綺麗事だ」としか思えないし、幸村に共感するはずです。
実際に病気から立ち直ってきたという設定はすごく受けがいいでしょうし、日本人は判官贔屓の性がありますから立海の方に肩入れしたくなる人も多いのでしょう。

しかし、その奥底にある立海のテニス、その象徴である幸村のテニスが根源的な部分でねじれて歪んでいたとした場合、それを素直に応援できるでしょうか?
だからこそ、越前親子の宣告は幸村精市にとっては極めて残酷な報復だったわけであり、越前親子は幸村に「テニスと向き合うことから逃げるな」と言っているのでしょう。
全国決勝の青学と立海の試合のポイントはいかにして歪んだ王者のテニスを根底から倒し立海を呪縛から解放するかにありましたが、越前リョーマが見事にその役割を果たしたのです。
勝ち続けていくうちに立海が見失ってしまった「テニスとは何か?」を最後はそこに辿り着いた越前が幸村に見つめさせ、やり直すきっかけを与えてくれました。

越前は一度手塚に負けたことによってその問いを突きつけられ乗り越えてきたわけで、だからこそ真田にも跡部様にも勝つ必要があったし、幸村を倒す必要があったのです。
立海大が持っていた競争主義によって歪められてしまい見失ってしまった「テニスをする意義」を見つめ直し揺り戻しを行うのが「テニスの王子様」のテーマでした。
そしてそれは同時に「地の時代」から「風の時代」への移行であるともいえ、氷帝や立海が負けたことは同時に地の時代の終焉をも意味していたのだと私は思います。
こうして見ると許斐先生は実に先見の明があるというか、まさしく「スラダン」の先を行く作品を描いてくれたなあと思うのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?