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脱構築か再構築か、それが問題だ〜Deconstruction or reconstruction, that is the question.〜

近年のスーパー戦隊シリーズやジャンプ漫画をはじめとするあらゆる作品群を見て行くと、ここ数年は特に脱構築(deconstruction)をやりたいのか、再構築(reconstruction)をやりたいのかが不明なものが多い
私が批判的に論じているポストモダニズムに近い概念として「脱構築=アンチ構造主義」の考えが広まり、さらにその後で「再構築=アンチ脱構築」という考え方が広まる。
フィクションには大きく分けて3つの段階があり、1つが純粋な構築の段階、2つ目がその過程で完成し凝り固まった構造主義を打破する段階、そして3つ目がその脱構築で変化したものを受けて新たな型を作り完成させる段階だ。
そして脱構築が2つ目の段階で再構築が3つ目の段階であることはいうまでもないが、これらの概念は戦後確立されたものではなく日本には既に「守破離」という概念が昔から確立されている。

だから、第一段階の構築=守第二段階の脱構築=破第三段階の再構築=離と捉えればそれでよく、どちらが優れていてどちらが劣っているということはない。
私がスーパー戦隊シリーズの中で何故『電撃戦隊チェンジマン』(1985)、『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)、『星獣戦隊ギンガマン』(1998)を三大傑作として扱っているかというのも、詰まる所理由はここである。
『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)までのスーパー戦隊シリーズの歴史を見てもらえればわかると思うが、この3つはそれぞれにシリーズにおける重要な転換点となっているのだ。
「チェンジマン」は「ゴレンジャー」〜「バイオマン」までで積み重ねてきた歴史の集大成であり、昭和戦隊の特徴である右肩上がりによる成長と宇宙スケールに拡大する規模感がマッチし、後世の戦隊に多大なる影響を与える傑作だ。

しかし、その「チェンジマン」までで完成した右肩上がりの成長の図式は『超獣戦隊ライブマン』(1988)で限界を迎え、「昭和最後の戦隊」としてバブル崩壊と共にデカダンスに陥り限界を迎えた。
それを受けて、1991年の『鳥人戦隊ジェットマン』ではその上原正三・曽田博久がメインとなって育ててきた概念としての「昭和戦隊」をバラバラに脱構築していき、スーパー戦隊がここで1つの「終焉」に至る
そこから次に取って代わる『恐竜戦隊ジュウレンジャー』(1992)〜『忍者戦隊カクレンジャー』(1994)の「ファンタジー戦隊=中興の祖」というべき段階を経るが、それでもまだ「完璧な再構築」はできなかった。
その「完璧な再構築」をやろうとして大コケしたのが現在配信中の『超力戦隊オーレンジャー』(1995)であり、ここでスーパー戦隊シリーズは迷走の末に破綻を来たし「原点回帰」とは何か?の道を考える。

そこで髙寺成紀が考えたのが「ジェットマン路線の脱構築」であり、『激走戦隊カーレンジャー』(1996)と『電磁戦隊メガレンジャー』(1997)は「ジェットマン」が打ち出した脱構築を更に推し進めたものだ。
「ジェットマン」という作品はどこかに「80年代戦隊」の残滓があり、「レッドがプロ+残り4人が素人」という図式から更なる脱却を図って5人全員が素人という設定にし、それを単なる設定で済ませなかった。
「カーレンジャー」も「メガレンジャー」も「等身大の正義」と称して「卑近な視点からヒーローになる過程を描く」というのを二作連続でやった時であり、この遠回りが凄く大きく影響している。
「ジェットマン」という作品が一作でやっていた抽象度の高い文芸が改めて「カーレンジャー」「メガレンジャー」の2作でより卑近な語り口で語られるために、より平易なものになっているだろう。

「メガレンジャー」では終盤で遂に「一般人ヒーローが守れるものの限界」を露呈させ、脱構築としてやって来たこともまたここで1つの限界を迎え、そこまでやりきってようやく「原初的な戦隊ヒーロー」の再構築が必要とされる。
そこまで見ていくことで、ようやく『星獣戦隊ギンガマン』(1998)から「再構築」の段階に入るとわかるわけだが、ここでようやく本当の「平成戦隊ヒーロー」のニュースタンダード像が完成を迎えるだろう。
しかし、人間というのはどうしても「木を見て森を見ず」な一面があるもので、この次元で作品を語れる人がどうにも少ないというか、「脱構築」こそが素晴らしく「再構築」がダメだという認識を持ちがちだ
それ自体がナンセンスな考えである、脱構築=破の後に再構築=離が来るという順番があるだけで、別にどちらが良いとか悪いとかいう問題ではないのだが、どうにもこの辺のことがピンと来ない人が多いらしい。

脱構築にも再構築にもそれぞれにリスクとハードルがあり、面白くありさえすればどちらも等しく素晴らしく尊いものである。
では両者にはそれぞれどのようなリスクとハードルがあるのかを箇条書きでまとめてみよう。

脱構築のリスク・ハードル

  • 「どこを壊してどう変えるのか?」の見極めが難しい

  • 表面に見えない構造主義そのものを破壊する必要がある

  • 抽象的で高度な作業であるため、斬新であるが一般層に理解されにくい

  • ヒットすれば革新的と称えられるが、外れれば目も当てられない

  • ギャンブル的要素が多分にあるので、正当な評価を受けるまでが難しい

再構築のリスク・ハードル

  • 「壊れた構造をどう立て直すか?」の見極めが難しい

  • 壊れた構造主義そのものの芯を一から作り上げなければならない

  • 強固な安定感と芯が生まれるが、斬新さは薄く真似されやすい

  • ヒットすれば「新たな王道」と称えられるが、外れれば「単なるエピゴーネン」と揶揄される

  • ギャンブル的要素は薄いが、相当に深いところまで詰めなければ評価・人気を得るのが難しい

これらをまとめてみると、脱構築はすでに出来上がった1→10の構造主義を解体することの難しさが、そして再構築にはその脱構築でバラバラになったものを再生させることの難しさがあるというわけだ。
ところが、現代は大量生産大量消費の時代であるために、何か1つのヒット作が生まれれば二匹目のドジョウ狙いという名のn番煎じが生まれ、じっくりとアイディアを熟考する暇もなく作品を作ることが求められる
特にスーパー戦隊シリーズは1作も切らしてはならないため、ある一定のところまで行くと物語の構造を考えるのがめんどくさいから表面上の派手さだけで奇をてらったような訳の分からない作品ばかりが生まれるのだ
その結果として、表面上は「脱構築」を名乗っていながら中身を見てみると所詮は「再構築」でしかない、否、もっといえば作り手自身も「脱構築」か「再構築」かすらわかってないような作品が氾濫している

それこそ前作『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』(2022)は確かに白倉+井上コンビなのもあって、確かに「脱構築」を売りにした作品ではあったし、ファンもそのように評価している。
だが、同じ井上敏樹がメインライターを張った『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)と比較して、どこがどう「脱構築」の作品であったか、スーパー戦隊シリーズをどう変えたかを適切に言語化できてる人がいるだろうか?
単純に平成ライダー初期にブイブイ言わせたコンビが破茶滅茶やってるから、それが奇を衒った常識はずれなことをやっているように見えるだけのことだという批判的精神の持ち主がどれだけいるというのか?
そこを蔑ろにしたまま議論を進める人が多く、それこそ今年の『王様戦隊キングオージャー』だって一見型破りなことをしていそうで、実はあんまりここ数年の戦隊がやっていることのハードルを低減させただけである

自身の作品が脱構築か再構築か、改めてその部分をじっくり突き詰めて考えて作品を作って欲しいのだが、現代のやたらに効率ばかり拘る環境ではそれも難しいのであろうなあ。
まあスーパー戦隊シリーズだけではなく、ジャンプ漫画も今一部の売れてる作品(『ONE PIECE』『呪術廻戦』等)を除いて、どっちか分からないようなのばっかだけど。

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