「子供ヒーロー」を描くことの残酷さ〜「五星戦隊ダイレンジャー」と「烈車戦隊トッキュウジャー」における「子供」の描かれ方〜
『五星戦隊ダイレンジャー』のキバレンジャー/コウを見ているが、今見ると「ダイレンジャー」はその表向きの熱さとは対照的にめちゃくちゃ複雑な設定と物語を入れていたのだなと思った。
コウは要するに生き別れの母と離れ離れにされたゴーマ族の幹部・シャダムの息子にしてアコ丸とは血の繋がった兄弟、そして普段はリンのところに居候して面倒を見てもらっている等身大の子供。
当時まだ15作目だったスーパー戦隊シリーズの6人目の追加戦士をなぜこんな設定にしたのかは皆目検討がつかないが、今見ていると明らかに設定の無茶を押し通していて批判の対象になりかねない。
しかしこれは脚本家の杉村升がそういう「狂気の闘争」を皮膚感覚で知っている最後の世代の脚本家だからであり、学生運動の熱量と挫折を味わった全共闘世代らしい発想である。
コウは基本的に自分が絡む話以外では表に出てくることはなく、しかも後半に入るまで正体を明かさず白虎真剣に名乗らせているが、これは子供に命懸けの戦いを強いているという印象を和らげるためだ。
戦争は人を変えるというが、特に人格形成が行われる子供が戦いに参加するというのはそれだけで後々の人生に大きな影響を与えるものとなり、下手すればPTSDを患ってもおかしくない。
正体を明かさないことに関しても疑問に思っていたが、正体を明かしてしまうとゴーマからダイレンジャーの中で最も弱き者として付け狙われるのが目に見えているからだ。
また、亮たちから「お前のような子供に戦わせられるか!」とヒーローの資格を強制剥奪されかねないし、また逆に「お前今日からキバレンジャーとして戦え」という態度もそれはそれで問題ではある。
この「戦場の狂気に子供を巻き込むことの是非」に関しては1作目「ゴレンジャー」から問題になっていたことであり、例えば007こと加藤は12話で判断ミスにより子供の太郎を危険な目に遭わせた。
その結果としてアカレンジャー/海城剛から「君はイーグルの一員じゃなかったのか!?弟を思う気持ちは分からんでもない。だが、それがゴレンジャーを裏切って良い理由にはならん!」と叱責を食らう。
海城はその後ペギーから「言い過ぎよ」と窘められるが頑として決断を変えられない、戦争においては生半可な友情ごっこや肉親の愛なんて持っていたら油断を招き死んでしまうからである。
同じようなことは曽田博久の「ゴーグルファイブ」や「チェンジマン」でも描かれていて、例えば「ゴーグルファイブ」の4話ではコンピューターボーイズ&ガールズがミキの命を危険に晒した責任を問われた。
また、「チェンジマン」の27話では疾風翔に「戦争で犠牲になるのは、いつも女と子供ってわけか」と言わせており、こちらはその後翔がそのフェミニストな性格故に痛い目に遭っている。
終盤ではリゲル聖人として幼女から大きく成長したナナちゃんを剣飛竜が説得して参加せようとするが、ナナから「私は戦争の道具ではない」と拒絶されてしまう展開まであった。
にも関わらず、アニメや漫画の世界では今でも少年少女が「アニメの世界なんて所詮虚構だから」をいいことに子供を戦いに参加させており、日本はいつまでこの児童虐待を続けるのだろうか?
日常の子供が突然ヒーローの顔をして世界を救うなんてことの代表例は大長編「ドラえもん」や「クレヨンしんちゃん」の劇場版がそうであり、彼らは普段戦場の狂気とは程遠い世界にいる普通の子供だ。
ところがそんな彼らが映画になるとまるで戦時教育を受けたスーパーヒーローとしての顔になり活躍を見せるが、これ自体がそもそもおかしなことではないだろうか?
子供騙しだと言ってしまえばそれまでだが、大長編「ドラえもん」や劇場版「クレしん」はまともな判断ができない子供を極めて抽象度が高い危険な戦争の世界に巻き込むことの是非について何も考えていない。
ただ子供を楽しませればそれでいいなどとお金のためにやってるのが透けて見えてしまい、だからある時期以降私はこれらを見なくなったのだが、実は戦隊シリーズが描いている世界はそれだけ危険なものである。
ロボアニメでもまともな訓練を受けていない設定の少年少女を戦わせることが多いが、そういうツッコミが来ないように作り手は主人公が未成年でなければならない理由を必死に紡ぎ出す。
その結果として一番納得のいくものが2つあり、1つは『超電磁マシーンボルテスV』のように臨戦態勢で訓練を受けさせた戦闘のプロとするか、それとも『無敵超人ザンボット3』のように催眠術による洗脳教育でもするか。
そうでなければ『機動戦士ガンダム』のアムロのように新米の兵士がかかる病気になってもおかしくないし、最悪の場合『機動戦士Zガンダム』のカミーユがそうであるようにラストで精神崩壊になる結末もあり得る。
年端も行かない子供を戦わせること、ましてやそれを生身の人間が演じる実写特撮の世界で説得力を持って描くことがどれだけ難しいかというのをスーパー戦隊シリーズの作り手はきっとわかっていたはずだ。
そしてそれは小林靖子もきっとわかっていたに違いはなく、それこそ「ギンガマン」「トッキュウジャー」ではそんな風に子供を戦いの世界に巻き込むことの危険性をしっかり描いていた。
「ギンガマン」の十七章『本当の勇気』では勇太が戦おうとしてヤートット相手に腰が抜けてしまう描写があったし、十九章『復讐の騎士』の冒頭ではクランツがゼイハブに殺される描写がある。
これらを見ていると力のない子供が十分な訓練と心構えを積んでいないまま戦いに参加しても足手まといとなって殺されるだけだというシビアな現実が描かれていたというわけだ。
だから「トッキュウジャー」もそのあたりはかなり慎重かつ丁寧に扱われていて、ライトたちはまず記憶喪失になった上でシャドーラインによって一時的に大人の肉体を得ている。
そしてまた車掌や虹野明など彼らを見守る保護者としての大人たちをつけておくことで初めて彼らはトッキュウジャーとして戦えるわけであるが、ただそれだけでは子供に切った張ったさせてるに過ぎない。
そこで物語としてはシャドーラインと戦えば戦うほどシャドーラインの闇にライトたちが影響されてしまい、このままだと子供に戻れなくなってしまうというリスクが提示される。
その上でレインボー総裁は一度トッキュウジャーを解散してトッキュウジャー2を結成しようとしたわけだが、その場合でも5人の故郷の昴が浜がきちんと戻ってくるという保証はない。
だからこそ彼らは子供に戻れないというリスクを抱えながら戦うという覚悟と決意が第三十二駅で描かれていたわけであり、ここまでしてようやく子供ヒーローを実写で描くことに説得力が出る。
因みにトッキュウジャーとシャドーラインの戦いには裏モチーフとして「古事記」のイザナギとイザナミの黄泉の国の話が使われていることにはお気づきだろうか?
「トッキュウジャー」のシャドーラインは「闇」の象徴であると同時に「地獄」「黄泉の国」のメタファーでもあり、イザナギがイザナミを助けるために行った黄泉の国は一度入れば戻れない世界である。
そこで再会したイザナミはもはや美しかった頃の面影の全くない危険な女として描かれているが、命辛々生き延びたイザナギはその世界で受けた「穢れ」を落とすために日向の国・阿波岐ヶ原で禊を行う。
ライトたちが闇の影響を受け過ぎるとそれが穢れとなって元の子供に戻れないというのは実は神道をベースにした「古事記」の辺りから取ってきたのではないかと思われる。
それを払うためにはライトたちはトッキュウレインボーに覚醒する必要があり、トッキュウレインボーへの覚醒とはある意味でライトたちなりの闇を削ぎ落とす禊だったのではないか。
話が脱線したが、それくらい子供ヒーローを実写で描くことは骨の折れる作業であり、ましてや国家戦争が大元のモデルであるスーパー戦隊シリーズはその辺りをデリケートに扱う必要がある。
「ダイレンジャー」のキバレンジャー/コウは子供に「自分もヒーローになれるかも」という希望を与えたと同時に未成熟なものを戦場の狂気に巻き込むことの残酷さまでをも露呈させた。
だからこそシリーズの中でも子供ヒーローは少ないのではないだろうか。