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『勇者エクスカイザー』(1990)感想〜シリーズの原点でありながら、同時に「例外的」とでもいうべき奇跡の大傑作〜

ここ2ヶ月ばかりずっとデジモンシリーズをこすり倒しまくってきたので、流石にこれだけ毎日デジモンで精神を摩耗すると脳も疲れてくるし、やはり何度見てもデジモンシリーズには「第二のポケモンになり損ねた作品・商品」という感想しか湧いてこない。
書けば書くほど何だか相手の弱いところばかりを突いて殴りつける死体蹴りみたいな風潮になってしまっているので、流石にもうこの辺で一度置いておくとして、今回はそのお口直しというかリハビリも兼ねて真っ当な子供向けアニメをレビューしてみよう。
その第一弾として取り上げるのはこれまでずっと存在をちょくちょく臭わせながらもあまり触れることなくやり過ごしてきた私にとっての「アニメーション」の初体験である「勇者エクスカイザー」(1990)だ、評価は以下の通り。

評価:SS(殿堂入り)100点満点中120点

本作がいわゆる私たちプレッシャー世代後期(1985年〜88年)生まれの未就学児童に向けて作られた王道の子供向けスーパーロボットアニメのニュースタンダード像であることは誰しもがご存知であろう。
実際それを志向して作られたわけだが、商業的には特にスーパーファミコンが発売された年末商戦においては苦戦を強いられたこともあり、決して芳しい結果が出たというわけではない。
また、知名度という点においても本作は決して『機動戦士ガンダム』『新世紀エヴァンゲリオン』のように業界全体に影響を与え再考を迫るほどの刷新を促すようなこともないのである。
勇者シリーズというと、それこそ「スーパーロボット大戦」シリーズをはじめとするクロスオーバー系のSRPGや「ガンダムSEED」以降でロボアニメから入った人たちにとっては馴染みが薄いであろう。

一般的な知名度・認知度で言えば有名な勇者シリーズは『勇者特急マイトガイン』『勇者王ガオガイガー』の2作であろう(特に「ガオガイガー」はファンからもスパロボシリーズでも散々に擦り倒されてもはや株価が大暴落している)。
しかし、勇者シリーズをほぼ全て原体験で体感した人は決して勇者シリーズといえばその代表が「マイトガイン」「ガオガイガー」などでは断じてないことは周知の事実であり、では何かというとやはり第1作目の本作か『勇者警察ジェイデッカー』だろう。
勇者シリーズは子供向けのスタンスとしてはどちらかといえばスーパー戦隊シリーズに近く、ガンダムシリーズみたいにキャラ描写やドラマが語られるようなことはなく、あくまでも当時の子供が見易い痛快娯楽ロボットアニメである。
要は『マジンガーZ』『ゲッターロボ』のような玩具CMがあるお茶の間文化にあった「スーパーロボットアニメ」という文化そのものの復興を試みたルネッサンスであり、エルドランシリーズと併せてこれを体感できたのは僥倖ではなかろうか。

そしてそんな「スーパーロボットアニメのルネッサンス」をある意味代表する本作は極めて「王道的」でありながら「例外的」でもあるという意味において私の中では「初体験」という意味も込めて唯一無二である。
本作がなかったら間違いなく私は「ロボアニメ」はもちろんのこと「テレビ」という文化にも、そして「エンターテイメント」というものにも深く携わることなく今日を生きることとなっていたであろう。
6歳で衝撃を受けた『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)よりも1年早く出会えたことも含めて、それこそ少しだけデジモンシリーズとの比較・検討も踏まえながら「エクスカイザー」がどのような作品であるかを本稿で述べる。
したがって、世間一般に思われている「エクスカイザー」と私にとっての「エクスカイザー」に乖離があることは重々承知であることは前書きした上で本稿に入ろう。


テーマや展開自体は「王道的」なのだが「道徳的」では決してない

まず私が決して「思い出補正」で語らないようにするために改めて1話から全部を見直してみたのだが、本作は2作目「ファイバード」以降と比較しても目立つ特徴としてテーマや展開自体が「王道的」だが「道徳的」ではないのである。
本作のテーマは主題歌でもあるように「宝物探し」であり、最終回ではそれが「命」とも繋がっているのだが、だからと言ってそれを決して大上段から正論として振りかざすような作風にしていない
主題歌にはそれこそデジモンシリーズの1作目でも用いられている「勇気」と「友情」という言葉が出てくるし、実際にエクスカイザーと星川コウタの間にはこの2つの言葉が当てはまるくらいに見ていて美しいものだ。
宇宙からやってきた生命体と地球人との交流なのだが、エクスカイザーとコウタのそれは我が戦隊随一の最高傑作である『星獣戦隊ギンガマン』のギンガレッド/リョウマと青山勇太少年の交流のオマージュにもなっていると思われる。

これらの交流は「デジモンアドベンチャー」でいうところの選ばれし子供たちとそのパートナーデジモンの交流なのだが、「エクスカイザー」「ギンガマン」は後発のはずの「デジモンアドベンチャー」なんかよりも遥か上手に描けている
エクスカイザーとコウタの関係は話を追う毎に深まっていき、コウタがエクスカイザーの背中に「勇気」を学び、またエクスカイザーが「友情」を育むのだが、それを決して「どうだ!彼らの成長した姿は凄いだろ!」と決して偉ぶらない。
「勇気」「友情」といったマジックワードは耳障りがいいがその実態は曖昧模糊であり、それをヒーローフィクションの理屈として物語の核に据えるとどうしても道徳的というか説教臭い話になってしまう
しかし勇気も友情も、そして愛もそうだがそれらはあくまで「そこにあるもの」としてただ肯定的に描くだけでいいのに、そこに変な意味づけをしようとしたり解釈を持たせようとしたりしてしまいがちなのが子供向けアニメの落とし穴である。

そういう意味では本作が展開そのものが「王道的」でありながらも決して「道徳的」ではない、つまり「説教臭さが全くない」というのは非常に好感の持てるあり方であり、私がすんなりと本作に入れたのもそこが大きいのかもしれない。
もちろん、ヒーローフィクションとしての「格好良さ」はあるし、最終回のラストシーンはジワリと来るものはあるのだが、だからと言って露骨な美談や感傷にしていないことこそが本作の例外的に素晴らしい特徴であることが挙げられる。
それもそのはず、エクスカイザーはあくまでも「宇宙からやってきた警察官=異星人」であって「神様」でも「仏様」でも、ましてや「学校の先生」でもないのだからコウタをはじめ地球人にああしろこうしろというのは筋違いだ。
ましてやそれで自分たちの生き方や個性なるものを規定して「これこそが絶対に正しい価値観なんだ!」というような決めつけを絶対にしてはならない、その先に待ち受けているのは排他的差別主義による世の中への偏見と絶望である。

私が「デジモンアドベンチャー」の批評から散々「ウィルス種=闇=悪」という価値観と、それを旗振ってるリーダー・八神太一を中心に選ばれし子供達が絶対的正義であるかのように規定してしまったことを批判しているのはそういう理由だ。
太一たちの言い分ややっていることは表面上こそ「ヒーロー」に見えるのかもしれないが、もっと俯瞰して見た作品全体としてみると明らかに極端に偏った暴力的価値観を押し付け、正論を振りかざしてデジモン殺しを肯定するテロリストでしかない
そこの落とし穴に気づいてしまった時に私は無印を「説教臭い上にやっていることが単なるテロリスト」だと気づいて無理だとなったわけだが、もう1つの理由として本作をその9年前に見たことも大きく影響しているのだと気づかされた。
激しい敵組織との攻防や命がけの戦いも、そして泣けるような話も熱い話も、それこそあらゆる「センス・オブ・ワンダー」が詰まっているのだが、そういう作品にありがちな教条主義なるものがないのは本作の稀有なバランスである。

1作目にして既に空前絶後の完成度を誇る伝説の勇者エクスカイザー

本作をロボアクションという観点から見た場合、やはり何と言っても伝説の勇者たるエクスカイザーの格好良さであり、速水奨という声優の魅力はもちろん、デザインも動きもキャラクター性も全てにおいて「ヒーローの理想」が凝縮されている。
まず強さに関しては1話で描かれていたようにキングエクスカイザーに合体する前ですらも宇宙海賊ガイスターを相手取る強さを誇るのだが、これはまだシリーズ物の文法やお約束が固まりきっていない1作目だからこそ出来た展開なのかもしれない。
また、プロの宇宙警察としての強い使命感を持ちながらも、決してコウタたち地球人を相手に尊大な振る舞いや偉そうな態度を取ることもなく、むしろコウタとの交流を通して様々な「宝」に魅力を感じるようになって行く。
「プロなんだけど決して偉ぶらない紳士」というのが私にとってはむしろ珍しく、本当に汚れなき美しき魂を持った地球外生命体として、そして何よりも「ヒーロー」として最高のかっこよさであり、今見ても色褪せることはない。

もちろんレイカーズらサポートメカの活躍も素晴らしいし、キングエクスカイザーとドラゴンカイザーのどちらも素晴らしいわけだが、なんといっても本作の真骨頂は後半に出て来るグレートエクスカイザーである。
スーパー戦隊でいうところの「スーパー合体」なのだが、何が素晴らしいといって1号ロボをベースに2号ロボをパーツ分解して鎧として装着する「着込む」形式の合体にもかかわらず、デザインもプロポーションも全く破綻していないことだ。
同時期の『地球戦隊ファイブマン』のスーパーファイブロボと見比べてみるといい、あちらは胴体と足はそれなりなのだが両腕が微妙であり下半身もさほど強化されないので全体的にデザインもプロポーションもガタガタに破綻している。
それに比べるとグレートエクスカイザーはとても偶然による思いつきの合体とは思えないほどによくまとまっているし、何と言っても必殺技のカイザーソードが最高にかっこいいカタルシス全体で見るだけで血湧き肉躍る展開だ。

田中公平のBGMが素晴らしいのもさることながら、動きも演出も一切手を抜かずに細かい構図やカット割まで全て計算されており、70年台には弱小だったサンライズがロボアニメを作り続けて10年でここまで飛躍的に技術を進歩させている
どこぞのモンスターアニメはそういうバンクシーンですらCGで露骨な手抜きをしているわけだが、本作はまだCGが導入されていない時代ということもあり、今はもう見られないセル画時代のオーパーツがグレートエクスカイザーに詰まっているのだ。
特にダイノガイスト様との月面での最終決戦はたった4分30秒しかないにも関わらず駆け引きも含めて全く無駄がなく、なおかつチートのような胡散臭い奇跡もなく持てるもの全てを尽くして戦うのが最高にかっこいい。
この後「ガオガイガー」まで続いて行く勇者シリーズの定番であるバンクやパースなどの基礎が構築されているわけだが、もはや「芸術」「粋」と呼べるレベルにまで到達しており、これに匹敵するレベルの勇者を私は他に知らない

だから、このレベルのものを原体験として毎回浴びるように見せられ続け、現在も見直すたびに衝撃を受け続けているグレートエクスカイザーのすごさを知っているからこそ、私は以下の文言に些か憤懣やる方ない気持ちに襲われる。

合体してパワーアップ!ってのも分かりやすくていいよね。
1号ロボと2号ロボが合体して最強になるグレート合体みたいで。

矛さんに向けての批判・当て付けという訳ではないのだが、今や散々に擦られて安売りされてしまっているオメガモンと決して安売りされず今も燦然と輝きを放つグレートエクスカイザーとを同列に語るのはご遠慮願いたい
グレートエクスカイザーのカイザーソードが出す必殺技の圧倒的カタルシスに比べたら「ぼくらのウォーゲーム」のオメガモンのカタルシスなんぞはその足元にも及ばない、立っているステージがそもそも違う。
もちろんエクスカイザーだけではなく他にも色々な素晴らしいヒーローものやロボットアニメをそれなりの質・量ともに見てきたというのはあるが、ネタ単位でもそれを出すのは本家に失礼というものだ。

悪党でありながら唯一エクスカイザーに勝利を与えなかったダイノガイスト様

そんなエクスカイザーの宿敵である宇宙海賊ガイスターの代表にして本作の裏主人公とでもいうべきダイノガイスト様は私の中でフリーザ様や船長ゼイハブと並ぶ最高の悪のカリスマの一人として君臨している。
宇宙海賊というだけあってやることなすこと全てダーティーであり、私利私欲の宝物を奪う為なら卑劣な手段も厭わない、最終回ではコウタを人質にすらしているのだから決して人格者などではない。
それにもかかわらず彼の行動には「悪の美学」が感じられ、単なる「クズ」ではなく宇宙警察カイザーズとは違う独自の価値観を持って戦うことに一定の美学があって、それもまた素晴らしかった。
しかもこのダイノガイスト様も悪の首領でありながら、決して後ろで構えて胡座をかいているのではなく自ら前線に出向いて積極的にエクスカイザーと戦うし、宝を手に入れる為ならあれやこれやと策を弄することもある。

本作のかイザーズとガイスターの関係性は単なる「警察と犯罪者」の関係性というだけではなく、「守るべき宝を持つ者」と「守るべき宝を持たざる者」とに二分されており、文字通りかイザーズのネガとして描かれたのがガイスターだ。
彼らは地球にあるあらゆるものを踏み躙って奪う、それこそ1話ではコウタの大切なカメラを容赦なく壊してしまうほどだから、文字通りの略奪者なのだが、驚いたのはダイノガイスト様の「最期」である。
本作に関しては基本的に人が死ぬことはないのだが、だからこそ最終回でエクスカイザーが守るべき「ダイノガイスト様の命」を太陽への心中という形で「奪った」のであり、この展開は消化できない驚きだ。
ここまた上で述べたように「王道的」なように見せた「例外的」なシーンでもあり、決して「命は大事にしましょう」という綺麗事をそう簡単に通さない作り手の意地のようなものが感じ取れる。

通常のヒーローものの文法であればダイノガイスト様は最終的に逮捕されるべきだったしそちらの方が美しくまとまったかもしれないが、そこを敢えて「死なせる」ことでエクスカイザーを単なる完全無欠のヒーローにしていない。
最後の戦いはそういう意味で「試合に負けて勝負に勝った」ということなのであろう、少なくともダイノガイスト様にとっては決してこの勝利は望んだものではないが己の中の一線だけは守り通したのである。
これは最終回まで基本的にはエクスカイザーが優勢で進んでいたからこそ有効に成立しうるどんでん返しであり、誰しもが意表を突いた展開として挙げるだろうし、私もそうだった。
本作はともすれば「命が失われないので戦いに緊張感がない」と思われがちであるが、そういう平和な日常の延長線上に存在する本作の世界観だからこそ最終回のダイノガイスト様の死が特別たりうる。

単なるヒーローが悪党をやっつけておしまいという形にしなかったのは必ずしも私の好みというわけではないが、本作の場合はこれ以上ない最適解として有効に機能していたのではないだろうか。
次作「ファイバード」以降は戦いの規模感も話のテーマも複雑化していき、最終決戦は敵も味方も双方ボロボロになりながらの戦いが増えるのだが、そういう意味でもダイノガイスト様は他のシリーズにはない唯一無二の存在感を誇る。
悪のカリスマで尊大でありながら、決して完全無欠というわけではなく、エクスカイザーがグレート合体すれば圧倒的できるというのを逆手に取って「己の意地」だけは守り通すキャラとして描いた
そのことがヒーローフィクションにある物語の大枠にハマることなく、物語の都合のいい道具にしないという作り手のこだわりが強く反映されており、そのことが「エクスカイザー」という作品を例外的たらしめている。

ラストシーンは「感動的」だが「泣かせ」では決してない

そしてラストシーンなのだが、いわゆるヒーローものにおいて「離別」という要素をラストに持ってくる例はいくつかあるのだが、本作「エクスカイザー」では実はそこまで別れのシーンに尺を取っていない。

エクスカイザーという作品には殆ど展開の起伏がなく、それに関して少々指摘もしていたところがあったが最後まで見ると”展開に起伏がなくて正解”だったのかもしれない。いうなれば”ほのぼのとした日常にロボットの友人がやってきたハートフルな物語”なのだろうか

このコウタが別れの悲しみを乗り越えて何時ものような日常へまた戻っていく所もさっぱりと描くことで、上手く説明できないのだがエクスカイザーが日常の物語のような気がしてしまった。そこは深く描くよりもサラリと描いたからこそふと忘れられないものになったのかもしれない。

そうなのだ、ここでも触れられているように「エクスカイザー」においては決して「別れ=ゴール」ではなく、むしろ「新たな日常の始まり」であって、エクスカイザーがいなくても星川コウタの日常は続いていくのである。
ここが本作の妙味であり、あくまでも一貫して「高石タケル史観論」ならぬ「星川コウタ史観論」として描かれることによって、決して必要異常にしんみりさせず、泣くべき部分では泣かせつつも必要以上にクドく描かずさらっと終わらせた。
星川コウタという少年にとってエクスカイザーとの出会いと交流、そして別れは「少年期における大切な宝物」にはなってもそれが決して「人生の全て」であるかのようには語られていないし、そこで足踏みなどしていない。

これほどに力強くも爽やかに別れが描かれた作品というと、それこそ映画『トイストーリー3』辺りが浮かぶのだが、あれもアンディが大学生になってウッディやバズたちとお別れし、近所の幼稚園の子に自分の玩具を全て託して行く。
しかし、それは決して悲惨な終わりなどではなくウッディたちにとって新たなる日常の始まりを意味しており、「感動的」ではあるが決して「泣かせ」ではないというところが本質的に似通っている。
まあだからこそ、その「3」の完璧な終わり方を台無しにしやがった『トイストーリー4』は個人的に『デジモンアドベンチャーtri.』『デジモンアドベンチャーLAST EVOLUTION絆』と同レベルの黒歴史として未だに許せないのだが。
大抵の場合、「別れ」というものはネガティブで後ろ向きな涙を流すイメージがあるが、色んな転機がある人生の中で一々別れのたびに泣いたり湿っぽくなったりするようなことがあるのかというとそういうわけではない。

少なくとも私には「別れ」で泣かせようとする魂胆がわからないし私自身も卒業や別れといったもので泣いたことは一切ない、何故ならば私にとって卒業や別れはあくまで「次のステージに向かうための区切り」でしかないからである。
そのせいか友人たちからは「薄情なやつ」なんて言われてしまうが、その人との縁が本物であったら特別に意識せずともいつかまた会えるだろうし、逆に会えなかったら所詮はそこまでということではないだろうか。
だからこそ「別れ」そのもので感動させて泣かせに走っている初代『デジモンアドベンチャー』『デジモンアドベンチャーLAST EVOLUTION絆』のようないかにも狙ったような感動の別れなんてあまりにもクサすぎて鼻白んでしまう
私は決して別れに「共感」なんて一切したことなかったし今後も一生することはないだろう、だがそれは決して冷たいとかではなく別れとは次のステージに向かうための区切りだと考えればむしろ喜ばしいことはずだからだ。

そういうところもまた本作は素晴らしく、最初に書いた「テーマや展開自体は「王道的」なのだが「道徳的」では決してない」とも繋がるが、「温かい」のだが「クサさ」「あざとさ」が一切ないのが本作の一貫して素晴らしいところである。
フィクションだからある程度作り込むのはいいのだが、その部分が必要以上にクドくなって自然さを失ってしまうと途端に全てが崩れてしまうのだが、本作はそういう意味で文字通りの「シンプルイズベスト」を体現した大傑作だろう。
しかし、だからと言って単なるロボアニメの王道を行ったような作品というわけでもなく、いつどんな時代に見ても子供が安心して見られるような配慮がされており、見ていて心が温かい気持ちになるのだ。
それでいてヒーローフィクションとしてのロボアクションと最終回のどんでん返しも含めて、未だに私の中で燦然と輝きを放つ一作であり、頂点かどうかは不明だが間違いなく見て損はない本物の「」である。

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