『侍戦隊シンケンジャー』(2009)のパイロットを見て〜本当にこの作品は「和」を前面に押し出した「チャンバラ時代劇」なのか?〜
現在YouTubeで『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)と並行して『侍戦隊シンケンジャー』(2009)を視聴しているが、やっぱり改めて思う。
まだまだ本作は「読む」批評はなされていても「見る」批評は形成されていない、と。
よく小林靖子は「伏線回収が上手い」「脚本と登場人物の描写が丁寧」「芯がしっかりしている」と評価されることが多いが、その批評はもう正直今の時代には「古い」といわざるを得ない。
私も以前はそのように評価していたが、それはおそらく瞳が画面を抹殺した後で行われる「実存批評」なるものに基づいて評価したときの小林靖子という作家の評価ではなかろうか?
しかし、「現在」としてこの瞳が見る「タイムレンジャー」も「シンケンジャー」も、そしてもちろん原点となる「ギンガマン」もスーパー戦隊シリーズの王道から外れた例外的作品といわざるを得ない。
まあ「ギンガマン」に関しては後々しっかり「ギンガマン論」として書かせていただくとして、「シンケンジャー」のパイロットを改めて見た第一印象は「ヘンテコかつあざとい作りだな」ということだ。
まず何があざといって時代劇といえばお約束と言わんばかりに「水戸黄門」の伊吹吾郎を配置しているところであり、伊吹吾郎といえば「水戸黄門」をはじめ様々な時代劇・任侠映画で活躍した大御所である。
そんな大御所を主人公のお目付役に配する時点でだいぶ「狙っている」感じがあるのだが、更に5人の若者が松坂桃李・相葉裕樹・高梨臨・鈴木勝吾・森田涼花というのもなんか変な組み合わせだ。
それなりに芸歴のある相葉・高梨・森田はそれぞれ舞台やテレビドラマ・アイドルをやっているからわかるが、松坂と鈴木は果たしてなぜこの役所に配置されたのかが全くわからない。
まあ鈴木勝吾に関しては谷千明自体が割と擦れた都会の現代っ子だし、それが本人のキャラとも繋がっているからいいとしても、松坂桃李は演技力よりも背丈と顔で選んだのではないかと言いたくなる。
丈瑠が寡黙なキャラなのと伊吹吾郎の安定した演技でなんとか誤魔化しは聞いているが、この時の松坂桃李の演技力は歴代レッドでも台詞回しにインパクトも抑揚もなく、全く威厳がない。
ただ、背丈がとても高く立っているだけでそれなりに画にはなるので、むしろ彼に関してはもっと黙らせておいていざという時に少し言葉を発するだけにしたらよかったと思う。
何が言いたいかというと冒頭からそうだがあまりにも丈瑠にベラベラと喋らせ過ぎであり、戦いの後の爺との「殿とか家臣とか時代錯誤なんだ」のくだりは不要である。
それから以前の感想でも触れたかもしれないが、本作は「和」のテイストを必ずしも完璧に遵守していないところがあるが、まずこちらをご覧いただきたい。
こちらは池波家の稽古風景だが、池波家は「歌舞伎」の家柄と設定されているが、ここで使われている設定や行われている舞台は「歌舞伎」ではなく「能」であろう。
日本の伝統芸能を少しでも見た人であればわかると思うが、ここで使われている映像は脚本で使われている設定と必ずしも一致しているわけではない。
あくまでも子供向けだから誤魔化せているものの、ここで歌舞伎ではなく能・狂言で用いられている舞台のお屋敷は単なる「池波家」がどんな家柄かを視覚的に示すためでしかない。
また、そのことは他のメンバーに関しても同じであり、出てくる風景が必ずしも「和」で統一されているわけではない。
田舎の山奥に住んでいると思われる花織ことはは比較的日本昔話にでも出てきそうなところで笛を吹いているが、茉子と千明には全く「和」のテイストが感じられない。
茉子は保育士のバイトをしているだけで家庭が出てこないし、千明も高校の友達とゲーセンで遊んでいるだけの少しチャラチャラした感じの現代っ子として描かれている。
そう、「シンケンジャー」という作品の過激なところは「チャンバラ時代劇」をテーマとしていながら、映像的には必ずしも「和=純日本」として統一されていないことだ。
更に話はそんな4人の家臣たちと殿が合流するシーンにあり、ここでも何故だか茉子だけが黒子の用意する籠に乗って出てくるのだが、この映像も「変」である。
流ノ介の歌舞伎メイクしかり丈瑠が登場するまで全員がまるでコントのように現れたメンバーを当主だと勘違いするところといい、かなり過激な遊びをやっていた。
これは単なる「殿と家臣の主従関係」という物語のテーマや論理的整合性というだけでは片付かない細部の豊かさであり、何度見ても奇妙なシーンに仕上がっている。
そして丈瑠の言葉遣いもよくよく聞いてみると「お前、それでも本当に当主なのか?」と突っ込みたくなるようなことを言っていた。
実はここで既に終盤に向けての伏線を張っているといえなくもないが、どうしても流されがちなこの台詞や丈瑠の表情はよくよく考えたら変である。
これから共に戦おうとする仲間たちを危険に晒したくないというのもそうだが、「家臣」「忠義」じゃなく「覚悟」で決意しろというのもおかしな話だ。
第二幕で改めてこのセリフが出てきたから表面的には「役割」としてではなく「己の意思」で「侍」であることを選べという意味であるのはわかる。
しかし、そうはいっても家臣として戦う宿命は変えられないのだから、「公」としての役割を「私」として決意しろというのも矛盾した話ではなかろうか。
しかもその違和感は決して消えることはなくむしろその後の戦いに露呈していき、例えば1話目ではメンバーがバラバラに戦っている。
一応大した怪我などもなく戦えてはいたが、これはあくまでもアヤカシがそこまで強敵を繰り出しておらず、レッドがずっと戦い慣れていたからに過ぎない。
ピンクが言うように「何とかなったという感じ」なのが第一幕の戦いであり、この初陣は正直私自身はそこまで高く評価していないのだ。
映像のテンポとしてもゆったり目でかなり間延びしているし、しかもその後に巨大戦まで入れてしまうものだから胸焼けがしてしまう。
そんな視聴者の違和感はすぐに第二幕の不穏な空気となって膿が溜まったように噴出するのだが、それが二幕後半で出てくる「一生懸命だけじゃ人は救えない!」のくだりだ。
このシーンを改めて見直した時の違和感といったら凄まじい、丈瑠は「この程度で潰れる奴なら要らない」と厳しく突き放し、家臣たち(特に茉子と千明)は強烈に反発する。
しかし、ことはだけはそんな丈瑠の真意を理解して立ち上がるわけだが、単純な「殿と家臣の主従関係」を描くだけならこんな無用な軋轢を挟む必要はないだろう。
見方によっては丈瑠=シンケンレッドが物凄く横暴な人だと受け取られかねないリスクを承知の上で、小林靖子と中澤祥次郎は敢えて我々に挑戦状を突き付けてくる。
「お前らこんな厳しいやつがレッドでもついてこられるか?」と、敢えて強烈な違和感を与えてくるのだ。
小林靖子は「ギンガマン」の時からそうだが、必ずパイロットの段階で受け手に「驚き」を与えるための仕掛けを必ず入れてくる。
例えば「ギンガマン」の第一章『伝説の刃』では最強の戦士であるはずのヒュウガを敢えて死なせ、リョウマに星獣剣を託してなし崩しにギンガレッドに任命させた。
「タイムレンジャー」でもCase File 1でリュウヤ隊長が実はリラの化けた偽物であるという崩しを入れ、4人を孤立無援の状態に追い込み、たまたま通りかかった竜也をレッドに就任させる。
そういった「崩し」の仕掛けが本作に関しては第一幕の段階でなされていないと思いきや、実はまず映像で視覚的に崩しを入れ、第二幕の後半で本格的に丈瑠と4人の家臣の関係に崩しを入れた。
この作りが明らかに初期と後期で違っているのだが、何故こんなめんどくさい作りになっているかというと、歴史的な系譜として見るなら前作『炎神戦隊ゴーオンジャー』(2008)の逆張りであろう。
前作「ゴーオンジャー」が00年代戦隊の集約として紡がれているとするならば、その中身は端的にいって「意識されざる楽天性」、すなわち「自分たちはヒーローに任命されたからヒーローだ」というものである。
だが、それは決して喜ばしいものではなく、ヒーロー側であるゴーオンジャーのメンバーたちの精神年齢を小学生レベルにまで下げた小児性としての「バカさ」とほぼ同等のものであった。
そしてそれこそが私がバカレッドを嫌いな理由でもあって、まるでコロコロコミックの主人公がそのまま戦隊レッドになってしまったかのような感じが肌に合わなかったのである。
そういう「00年代的なるもの」への反抗の意思、すなわち「一生懸命だけじゃ人は救えない!」=「実力もないくせに偉そうに理想論を振り翳すな!」ということだ。
「ガオレンジャー」からの00年代戦隊は一部を除けば「ヒーローの本質では「力」ではなく「心」にある」という精神論のようなものを基調としていた。
しかし、それはあくまでも「力を伴ってこそ」であり、実際例えば素人の集まりであるゴーオンジャー側のそうした綺麗事は実力をきちんと持ったウイングスには全く有効ではない。
圧倒的な実力差は覆らぬまま何となく横並びの仲間になったような気がするだけで、正面からはっきりと「力の弱いゴーオンジャーが力の強いウイングスよりも優れている」となったわけではないのである。
その辺りの曖昧にボカされていたところに対して本作は容赦無く真正面から切り込んで行き、いくら口先だけで綺麗事を述べてもそれを形として実戦の中で発揮できなければただの無能だとシンケンレッドは言い放つ。
これは強烈な「反00年代戦隊」としての宣言でもあり、同時に「ガオレンジャー」以降の作品群からはまるで感じられなくなった「実戦の厳しさ」を取り戻させようという試みのようにも思えた。
とはいえ、このシーンはそんな歴史的なテーマ性がドラマとして再現されたから感動的なのではない、むしろテーマ的には小林靖子が既に「ギンガマン」で語り尽くしたことだからである。
実際「ギンガマン」ではシンケンレッド=志波丈瑠が語っていたような話は出てこなかったが、それは物語のスタートの段階でギンガの森の5人が実力も覚悟もチームワークも全てにおいて完璧に仕上がっていたからだ。
要するにわざわざ言わなくてもいいことをここでは敢えて口に出させているのだが、逆にいえばそうでもしなければ、家臣たちにも視聴者にとっても「命がけの戦い」という実感が湧いてこないということだろう。
では何故このシーンに衝撃を受けるかといえば、単純にこのシーンはスーツアクター・福沢博文というベテランと生身の家臣4人たちとの絡みで映像的に「殿と家臣」の関係性が成立していることへの感動である。
声だけは松坂桃李が当てているが、「ガオレンジャー」からずっと戦隊レッドのスーツアクターを担当してきたスーツアクター・福沢博文がこのシーンの身振り手振りを演じているため身体での演技が段違いだ。
それに対して生身の4人(相葉・高梨・鈴木・森田)はあくまでも戦隊の現場が初めてであるために、実戦の場でどんな振る舞いをしていいかわからないというリアルな葛藤が生々しく映し出されている。
その映像のロジックが中澤演出によって絶妙に撮られているからこそこのシーンは「シンケンジャー」の数多くある名場面の中でも、極めて鮮烈なシーンとして印象に残るのだ。
また、このシーンは殿が背面で敵の剣を受け流すチャンバラの映像美も素晴らしいし、まだまだ重たくはあるが殺陣の見せ場としても悪くなかった。
とはいえ、その後の巨大戦は正直もっさり気味というか、おでん合体のくだりはギャグにしてもテンポが悪いし、巨大ナナシは明らかに邪魔ではあるが。
この当時、既に巨大ロボ戦がマンネリ化していたから工夫を入れたいのはわかるが、雑魚兵を巨大戦まで出す必要はない。
そして最後に、彼らが使っている武器の名称や形・服装・言葉遣いなどを見ても必ずしも「和風」「チャンバラ時代劇」というイメージと重なるものではない。
例えば「烈火大斬刀」なんて名前のつけ方といい武器の形状といいどう考えても「るろ剣」の斬馬刀やゼンガーの斬艦刀の系譜だし、他の4人の武器も「それ本当に和風か?」と言いたくなる。
まず「ウォーターアロー」「ヘブンファン」「ウッドスピア」「ランドスライサー」と何故か武器名が英語だし、イエローのスライサーに関してはどちらかといえば忍者が使うものではないか?
また、服装も本当に「和風」として徹底するなら普段から私服ではなく変身前に着ている和服を着用しなければならず、髪型も男はちょんまげの短髪にしなければならないが、そうはなっていない。
つまり何が言いたいかというと、小林靖子が「時代劇趣味」として描く「主従関係」は必ずしも従来の東映時代劇と重なるものではない、それどころか全く違うものであるということだ。
あくまでも「ファンタジー=絵空事」としての「チャンバラ時代劇」であってNHKの大河ドラマのような本格的な時代劇ではないのが「シンケンジャー」である。
だから、そんな本作が「強烈な個性を持った作品」としてならともかくそれが「戦隊最高傑作」とまるでお手本のように語られているのは明らかな過大評価だし、またその全てが小林靖子という脚本家の作家性のみで特権化され語られるのも違うと思う。
その意味で本作は「読む」批評はあったが「見る」批評はまだまだ形成されていない作品である。
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