スーパーロボット大戦30周年企画・ロボアニメレビュー11作目『闘将ダイモス』(1978)
さて、「ボルテスV」の次となると、当然この「闘将ダイモス」なのですが、私は最初に「スパロボA」を見た時、「面倒くせえこいつ」と思ってしまったのです(笑)
というのも、「スパロボA」をプレイになった方はご存知だと思うのですが、竜崎一矢って話によって戦意喪失したり戦意高揚したりとテンションの差が如実に反映されます。
そのため最初から気力130、気力150だといいんですが、エリカが絡むと気力70になったり50になったりする上、攻撃力は強いけど装甲は脆く避けてくれません。
同時に参加していた「Gガンダム」のシャイニングガンダムとドモンの方が空中適性がないことを除けば、スーパー系の攻撃力と装甲、リアル系の運動性能を持っていたのです。
しかもドモンの方は前半ではスーパーモード、後半では明鏡止水で能力が大幅に向上する上、師匠やシャッフルの面子などと合体攻撃が可能なので、完全にドモンの下位互換になってしまいます。
そのような印象もあり、スパロボでのイメージを引きずったまま原作を見てみたのですが、本作の一矢は原作とほぼ大差がないというか、寧ろ一矢の方がドモンより俗っぽく見えました。
寧ろドモンに関してはスパロボだと特に初期は粗野な性格として描かれていますが、原作だと意外に冷静な大人の性格として描かれており、同じ格闘家出身でもドモンの方がエリートの家系だとわかります。
そういうこともあって、どうしても本作に関しては物語のテーマ、キャラクター、ストーリー等々全てにおいて「Gガンダム」の下位互換という印象が拭えないのです(ファンの方ごめんなさい)。
まあとはいえ、それはそれ、これはこれでクオリティの高い作品ではあり、特に一矢とエリカの恋愛ドラマに関しては後年のスーパー戦隊シリーズが継承している要素でもあります。
特に「マスクマン」のレッドマスク/タケルや「ジェットマン」のレッドホーク/天堂竜はこの竜崎一矢の恋愛一直線の空手バカというキャラ造形がなければ生まれていないでしょう。
歴代ロボアニメの主人公の中でも頭の中はほとんど惚れた女のことしか考えていないので、ある意味では最も共感しやすい主人公と言えるのではないでしょうか。
そんな本作ですが、個人的には「名作」ではあるし完成度は高いものの、前作「ボルテス」ほどの跳ね方、突き抜け方ができなかった惜しい作品という印象が強いです。
これからその理由に関して具体的に述べていきましょう。
(1)公的動機と私的動機の完全な逆転
まず本作を「戦いの動機」という観点から見た時に、前作と違って完全に戦いの動機が公的動機(地球の平和を守る)から私的動機(エリカとの恋愛)へとスライドしています。
ここに来て、ロボアニメはとうとう公的動機よりも私的動機の方が大事という大きなパラダイムシフトを起こすことに成功し、とうとう性欲で動く男を成立させたのです。
もっとも、惚れた女のためというだけなら別にそれ以前にもいたんですが、それはあくまでも戦いの中で「結果」としてそうなっただけで、最初からそれがあったわけではありません。
しかし、本作の一矢は徹頭徹尾「惚れた女のため」と言っても過言ではなく、それ故に戦意喪失したり、逆に戦意高揚したりともうとにかくテンションの上げ下げが激しいのです。
そんな煩悩野郎の一矢でも共感しやすいのは変にカッコつけようとせず、それに一直線なところがカッコいいからであり、これは同年の「ダイターン3」の万丈と比べるとよくわかります。
破嵐万丈は表向き「世のため人のため」と公的動機を掲げた完璧超人でありながら、その裏にはどす黒いメガノイドへの復讐心を巧妙に隠し持って動いていた男でした。
それが後半〜終盤になって徐々にむき出しになっていき、最終回ではその私的動機である「復讐」が浮上した時、それが敵の抱える「愛という執着」とさして変わらないことに気づきます。
つまり、ドン・ザウサーとコロスが実は「愛への執着」故に動いていたことを知った万丈はそんな彼らの姿が復讐に執着してしまった自分の心と重なっていたことに気づいたのでしょう。
この「心の中のメガノイド」に気づいたが故にこそ万丈は精神を破壊されてしまい、生きる意味を見失って世捨て人となってしまったのだと思われます。
それに対して、本作の一矢は惚れたエリカのためというのが最初にありきで、地球の平和やバーム星の平和を守るという公的動機は後からついて来たものです。
公的動機で戦う中で私的動機が芽生えたのが「コン・バトラー」、公的動機と私的動機がイコールだったのが「ボルテス」、そして私的動機から公的動機がついて来たのが本作となります。
これは同時にロボアニメとして見ると正義や善悪の形が理念に沿って作られるのか、それとも現実に沿って作られるのかという違いでもあるのです。
本作の一矢も兜甲児と同じように父親が開発したメカを託されるのですが、それはあくまで結果論であり、一矢は最初からダイモスで戦おうと思っていたわけではありません。
それまでは「この敵に立ち向かうにはこうだ!」という理念が先にあって、現実がそれに従う形で正義や善悪の境界線が形成されることになりました。
ところが本作ではまず敵が襲ってくるという現実が先にあって、そこから一矢たちが正義のヒーローになっていくという形で理念が形成されていきます。
つまり「コン・バトラー」「ボルテス」を通じて本作で「理念と現実」は完全に対等のものになったといえ、一矢は70年代スーパーロボットアニメの主人公としては極めて異色であリましょう。
地球の平和よりも惚れた女の方が大事というミーイズムで動いているのですから、これだけでも実は物凄く大胆なパラダイムシフトと言えるのです。」
(2)割と一定しないロボアクション
とまあこう書くといかにも壮大なロマンに感じられますし実際壮大なんですが、ロボアクションの方はどうかというと、どうしても荒削りな感じは否めません。
そもそも「Gガンダム」のような「代理戦争としてのスポーツ」と言ったテーゼがあるわけでもないのに、どうして人機一体の格闘ロボで戦うのかがわからないのです。
個人的見解ですが、狙いの1つとしては本作ではロボットと人間を一体化させる、つまり人の「外装」として規定したいということがあったのではないでしょうか。
「勇者ライディーン」はそれを実験として行った作品であり、それを更に一矢の人間性とつなげる形でやったのが本作のダイモスであると思われます。
この発想は翌年の「機動戦士ガンダム」ではMS(モビルスーツ)として規定され、その後「Gガンダム」のMF(モビルファイター)で結実することになるのです。
そのようなこともあって、やはり「Gガンダム」の洗練を先に原体験で知ってしまった後では、本作のロボアクションがどうしても荒削りに見えてしまいます。
ボルテスファイブは今見ても古びない普遍性のあるロボアクションとして完成しているのですが、ダイモスのロボアクションは回によって出来がマチマチです。
面白い回はとことん面白い反面つまらない回はとことんつまらないので、お隣の「ダイターン3」同様にロボアクションの面ではやや地味な印象は否めません。
その原因として挙げられるのが必殺技名が一定しないことであり、スパロボだと「必殺!烈風○○××!!」のうち2つくらいしか出て来ませんが、本作ではもっと出て来ます。
それ自体が悪いわけじゃないのですが、後半でパワーアップするまで必殺技が固定しないので、その辺りも微妙な印象を与えてしまっているのかもしれません。
「マジンガーZ」「ゲッターロボ」のように、まだロボットプロレスの文脈が固まっていない時代の作品ならわかるのですが、前作「ボルテスV」で固定の必殺技は定着しました。
その後でマジンガーZのような演出手法に逆戻りされても困惑するしかなく、この辺りはもっとしっかり詰めて洗練させて欲しかったところです。
ただまあ後半のメインとなってくるファイヤーブリザード、すなわち一度冷凍光線で凍りつかせて炎で急激に熱して装甲を溶かし、その上で破壊する発想はよかったのですけどね。
それだけに玩具があまり売れなかったそうですが、まああのギミックの少なさではそりゃあ楽しめないだろうと思いますし、逆に「Gガンダム」はそこをうまくクリアしています。
とにかく、新機軸のロボアクションをやろうとした意欲は買いますが、後半に入るまでいまいち安定していなかったのが個人的には惜しまれるところです。
(3)最大の敵はバーム星人より寧ろ三輪長官
そんな本作ですが、個人的に最大の敵はバーム星人よりもむしろ防衛軍の三輪長官であり、はっきり言ってスパロボでもこいつろくなこと一切しないんですよ。
もうとにかく「疑わしきは全て罰せよ」を地で行く排他的差別主義が半端ではなく、前作の岡長官や左近寺博士の人格者ぶりと比べると本当に三輪長官のクズっぷりが半端じゃありません。
スパロボシリーズでも原作再現されていましたが、いわゆる「勧善懲悪」を履き違えたらこうなってしまうのだということのいい例だと言えるのではないでしょうか。
前作だと一平がその排他的差別主義に陥りかけましたが、「バーム星人憎し」を拗らせた結果皆殺しの発想へ行き着いてしまうのが恐ろしいところです。
最終的にそんな三輪をぶちのめしたのは他ならぬ一矢だったのですが、前半から多くの試練を乗り越えて成長した一矢の集大成はそのエピソードだといえます。
最初は「惚れた女を守るため」からスタートした本作では逆にそこから視野を広げていき、「戦いとは何か?」をしっかりと見つめるようになるのです。
本作の面白いところは敵側であるバーム星人やラスボスのオルバン大元帥よりもむしろ三輪長官との戦いという身内の問題の方がはるかに厳しいというところにあります。
これに関しては「ジェットマン」「アギト」「555」あたりをメインで手がけられた井上敏樹先生なども継承している要素といえるのではないでしょうか。
ヒーローにとっての戦いとは決して敵と戦い地球を守ることだけが任務ではなく、身内の人間関係の方が厳しいという場合もあるのです。
前作までが敵側の内輪揉めで盛り上げたのであれば、本作はさらにそこにヒーロー側の内輪揉めまでしっかりと加えています。
この敵側の内輪揉めと同じくらいの味方側の内輪揉めは「機動戦士ガンダム」の、特に前半2クールに継承されていく要素です。
前作よりも善悪の構図が複雑化しているといえますが、三輪長官というキャラクターはその第一人者として歴史に名を残してくれました。
だからこそ、本作は前作で提唱した「社会(世界)そのものが悪い」というテーゼを前提とし、それをさらに卑近な「個」の関係に落とし込んでいます。
一矢たちダイモスチームもその意味では地球防衛軍という公的機関に所属しながら、内実はダイターンチームと同じ個人事業主の集まりでしょう。
しかし、ダイターンチームと違いきちんとした「組織」であるというところが大きな違いとなっているのが大きな違いとなっています。
この辺りも比較検討してみると違いが出て面白いところですが、ある意味「個人の連帯」と「組織所属」を両方取り込んだのが「ガンダム」ではないでしょうか。
(4)「ボルテスV」から先へ進めなかった物語のテーマ性
そんな本作ですが、個人的にはどうしても「ボルテスV」から先へ、もっといえば「宇宙戦艦ヤマト」から先へ物語のテーマ性を深めることができなかったといえます。
本作は一矢とエリカが結ばれることで物語の結末を見ており、そこにカタルシスはあるものの、作品の結論が「愛」だと結局は「ヤマト」と大差ないことになるのです。
「戦うことよりも愛し合うことが大事だった」では済まされない現実を描いたのが「ボルテスV」であり、だから前作のラストでは厳しくハイネルとカザリーンが引き裂かれました。
それが本作では、「社会そのもの」の問題を描きながらも結局2人の愛を結実させてしまい、そこから先へテーマ性を深めるには至っていません。
もちろん作品の最終的なテーマが「愛」でも構わまいのですが、似たようなテーマならそれこそ「Gガンダム」の最終回が物凄く突き抜けたことをしています。
あの清々しい突き抜けぶりを見た後で本作のごくありがちなラブロマンスを見せられても「だから?」という感想になってしまうのも当然ではないでしょうか。
愛でどうにかなるようだったら戦争はそう簡単に解決できるわけではないし、「愛」「ロマン」を惹句として使うような輩にろくなタイプはいません。
富野監督もそれを知悉していたからこそお隣の「ダイターン3」では最終的に味方側ではなく敵側が愛に目覚めているという屈折した落ちにしたのです。
「愛」という要素は「ヤマト」がそうであるようにヒーロー側の正義の根拠として安易に用いられがちなものですが、使い方を間違えると本作のようになりかねません。
愛では解決できないから戦争は起こるわけであり、だから愛は作品を構成する一要素として使うことはできても、それ自体を最終的な結論にはできないのです。
本作はその意味で物語のテーマとしては前作「ボルテスV」を超えられなかったどころか、むしろ「ヤマト」にまで後退したといえるのではないでしょうか。
非常にいい要素を提示しており、クオリティがすごく高いだけに、ラストでもう一歩物語として跳ねられなかったのが大変惜しまれます。
「コン・バトラーV」から長浜監督が提唱してきた要素の数々はロボアニメとしても、アニメ史上としても大きな革命をもたらしてくれたことに間違いはありません。
しかし、その演出手法が本作で1つの限界を迎えたともいえ、ここから先は富野監督らサンライズスタッフに任せることになったのです。
単純な「愛」ではな解決できない問題の先にあるもの…それがどこにあるのかを見つめ直そうとしたのが本作ではないでしょうか。
その壁を本作で超えることは出来なかったのですが、逆にいえばそれだけ前作が打ち出したものが偉大であったともいえます。
そしてその壁を突破する役目は「ガンダム」に託されたのであり、「ガンダム」はそうした70年代ロボアニメが行き詰まった壁を見事に打ち壊してくれるのです。
(5)「ダイモス」の好きな回TOP5
それでは最後に「ダイモス」の好きな回TOP5を選出いたします。
第5位…8話「地球を救え!戦え一矢!」
第4位…6話「涙をふいて立ち上れ」
第3位…35話「猛将バルバス翼たたむとき」
第2位…40話「海底城!総攻撃開始!!」
第1位…41話「一矢を襲うエリカの弾丸!」
まず5位は私情に引きずられがちである一矢が地球を守るヒーローとしての役目を自覚して戦うようになる名作回です。
次に4位はそんな一矢の私的動機や内面をこれでもかという位にしつこく描くことで、なんとか壁を乗り越えました。
3位はジャンギャルに匹敵するバルバスの最期が描かれた傑作変であり、個人的にはとても大好きな一編です。
2位は排他的差別主義を続けてきた三輪長官の因果応報が描かれており、ここが実質の最終回であるともいえます。
そして堂々の1位はそんな一矢とエリカの間の亀裂を描いた傑作回であり、これがあるから最終回の結実があるのかなとも。
本作もまた年間のアベレージ自体は高いのですが、最終回がテーマとしてどうしても前作を越えられなかったこともあり、この結果になりました。
(6)まとめ
本作は前作「ボルテスV」で打ち出した「社会(世界)そのものが悪い」を継承しつつ、一矢とエリカという「男女の愛」にフォーカスした作品です。
公的動機と私的動機の優先順位の逆転などパラダイムシフを起こしているのですが、物語としてはどうしても「ヤマト」の頃に戻ってしまいました。
最終的な結末が「愛」で落ち着かせるのはいいのですが、その「愛」の果てに何が待ち受けているのかを本作は描き切れていません。
つまり前作が提示した壁を本作は超えられなかったのであり、70年代ロボアニメの限界点が図らずも露呈してしまったといえます。
その要素は翌年の「機動戦士ガンダム」が継承し超えることになるのですが、年間の完成度自体は高い方なので総合評価はやはりA(名作)でしょうか。
ストーリー:A(名作)100点満点中80点
キャラクター:A(名作)100点満点中85点
ロボアクション:A(名作)100点満点中80点
作画:S(傑作)100点満点中95点
演出:A(名作)100点満点中80点
音楽:A(名作)100点満点中85点
総合評価:A(名作)100点満点中84点
評価基準=SS(殿堂入り)、S(傑作)、A(名作)、B(良作)、C(佳作)、D(凡作)、E(不作)、F(駄作)、X(判定不能)