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日虎の気まぐれインド哲学 第9回 自由思想家(沙門)たち②


こんにちわ。
今回も前回に引き続き、古代インドにおいて活躍した自由思想家たちのお話をしたいと思います。
古代ギリシアにおいてもそうであったが、哲学は有能な智者1人が打ち立てるものではなくたくさんの智者が互いの論理をぶつけ合って研磨していく過程の中で高尚な論理を生み出していきました。

⚫︎アジタ・ケーサカンバリンの唯物論

 アジタ・ケーサカンバリンの「ケーサカンバリン」は「髪の毛で作った衣を着る者」の意味です。アジタは、教団を開きましたがそれは、古代ギリシアにおけるエピクロス派の教団のような、素朴な人生の喜びをともに分かち合う共同体のようなものであったと推測されます。この教団は後にチャールヴァーカとかローカーヤタと呼ばれるようになります。

 彼は唯物論を説き、業・輪廻の思想を否定しました。善悪の行為の報いはなく、死後の生れ変りもない。人間は地水火風の四要素からなるもので、死ねば、四要素に帰り消滅する。死後存続することはない。布施に功徳があるとは愚者の考えたことであるとしていました。
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「人は(地水火風の)四要素からなる。
人が死ぬと、地は地、水は水、火は火、風は風に戻り感覚は虚空の中に消える。
四人の男が棺を担いで死体を運び
死者の噂話をして火葬場にいたり
そこで焼かれて、骨は鳩の羽根の色になり
灰となって葬式は終わる。
乞食(こつじき)の行を説くものは愚か者。
(物質以外の)存在を信ずる人は空しい無意味なことをいう。
 からだは、死ねば、愚者も賢者もおなじように消滅する。
  死後、生きのびることはない。」(『沙門果経』、『バラモン教典・原始仏典』世界の名著1)
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 なので、宗教的な行為は無意味で、この世での生を最大限利用して楽しみ、そこから幸福を得るべきだという。

「生きているかぎり、人は幸せに生き、ギー(溶けたバター)を飲むべきだ。
 たとえ借金をしてでも。
 というのは、からだが灰になるとき、何がこの世に戻れよう。(何もないからだ)」

 しかし、楽しみには悲しみがつきまといます。それを恐れて喜びから退いてはいけません。時には訪れる悲しみも喜んで受け入れよと説きます。

「人は、悲しみがともなうことを恐れて、喜びから退いてはいけない。
この世での喜びのためには、たまに訪れる悲しみも喜んで受け入れよ。
魚をもらうとき、骨がついてくるように。
米をもらうとき、籾殻がついてくるように。」

 この思想は宗教や道徳の根本を破壊するものと恐れられ、他のインド思想諸派から激しく攻撃されました。それにもかかわらず、この派が栄えた時代もあったことは否定できません。マウリヤ朝のチャンドラグプタの大臣カウティリヤの作と伝説される『実利論』は「哲学は、サーンキヤとヨーガと順世派(ローカーヤタ)とである」とされました。

 この書の成立年代は明確でなく、紀元前3世紀から紀元後4世紀までの間とされますが、1世紀の後半から2世紀の前半に明確な形をとったと考えられるヴァイシェーシカ学派の名があげられていないことから推定すれば、ヴァイシェーシカ学派に先立つ紀元後1世紀までに、ローカーヤタ派が栄えていた時代があったのであろうと考えられます。

 この派の文献で、現在まで伝わるものは極めて少ないですが、8世紀ころの成立とされるジャヤラーシの『タットヴァ・ウパプラバ・シンハ』(「真理」を破壊するライオン)は現存します。
 『タットヴァ・ウパプラバ・シンハ』は、自然の運行に「自然」(スヴァバーヴァ)そのもの以外の原因を認めず、知覚(感覚)だけを唯一の知の源泉として、推論に基づく<確実な知>の存在を徹底的に疑う懐疑主義の立場をとって、当時の主要な哲学・宗教諸派が立てる形而上学的な原理に対し、鋭い批判をあびせるものでした。

⚫︎パクダ・カッチャーヤナの七要素説


 パクダ・カッチャーヤナは七要素説を説きました。人間は七つの要素、すなわち地水火風楽苦と生命(あるいは霊魂)からなるもので、これらは作られたものではなく、何かを作るものでもありません。
 不動、不変で互いに他を害することがない。殺すものも殺されるものもなく、学ぶものも教えるものもいない。たとえ、鋭利な剣で頭を断っても、誰も誰かの命を奪うわけではない。剣による裂け目は、ただ七つの要素の間隙にできるだけである。行為に善悪の価値はないとされました。

 さきのプーラナ・カッサパの教えと同じく、これも道徳破壊の思想とされますが、そうではありません。人間の本質は霊魂にあると見て、霊魂は不動、不変なものなので、殺すことも害することもできないというのであります。『バガヴァッド・ギーター』2.24の「彼は断たれず、焼かれず、濡らされず、乾かされない。彼は常住であり、遍在し、堅固であり、不動であり、永遠である。」という思想と同じものです。

いかがでしたでしょうか。

 古代インドといえばヴェーダ思想→ウパニシャッドと来て、そこからバラモン教が発展して仏教が誕生したというイメージがあるかと思います。
 しかし、実際にはそれ以外にも自由思想家たちによる興味深い哲学観との切磋琢磨が常に行われていたのです。

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