『言語の本質』『私たちはどう学んでいるのか』『アブダクション』

『言語の本質』を読んでとても面白かったので、勢いで関連する本2冊も読んでみました。勢いは続かなくて数か月かかった。

言語の本質

『言語の本質』はベストセラーなので、今さら概要を書くのもなと思う。オノマトペの言語性などあまり考えたこともなかったので面白かった。オノマトペは外国では全く通じないとか、文法的な体系があったりするとか。にもかかわらずその言語話者にとっては体感的なイメージがしやすいという性質を持っていると。
そして後半はオノマトペから一般言語へのつながりを経て「ヒトと動物を分かつもの」に至る、推理小説を読むかのような怒涛の展開で、ネタバレするのを思いとどまらせるような内容でした。実際に読んでほしい。

私たちはどう学んでいるのか

『私たちはどう学んでいるのか』は逆に、ネタバレ上等とばかりにまえがきや章の冒頭でがっちり結論を書いていくスタイル。こちらも売れているのだとは思うが、ネタバレに何の抵抗もないので概要を書くと、人が学ぶとか成長するとかいうのには特定のパターンがあるという主張です。
まず前置き的に、「能力」と「知識」についてよくある捉え方を全否定してくる。能力は存在しない、その人に備わった力ではない。あるときある場面でうまくやっているのを観察して「うまくいったのはその人に能力があるからだ」と仮定しているだけなのだ。知識は伝わらない、知識は構築される。情報は伝達されるが知識は各自で構築しなければならない。身体性がもとになる。
次に本題として、練習による上達、子供の発達、ひらめき、という一見まったく種類の違う学びや向上が全部同じような働きで発生していると言う。それは冗長性とゆらぎである。練習しているとき、ちょっとずつ違う数パターンの体の動きが現れてくる。よりスムーズなものの割合が多くなるが、ぎくしゃくしたものもそれなりに現れている。やがて前後のつながりが改善されたりしてよりよい動きが入れ替わったりすると、そちらが多く用いられるようになる。しかし依然として無駄な動きをしているときもたまに現れつづけたりする。子供の発達でも、発達の階段を昇ったら幼いやり方は捨てられるというものではなく、当初から種々のやり方を持っていて試しているのだという。だが次の段階のやり方がうまくような条件が整っていないため、それが主流にならないのだという。
一番面白いのはひらめきで、これもまったく同じ冗長性とゆらぎであるとする。「洞察は単なる試行錯誤なのか」と問われればイエスだという。いろいろと考えを練っているうちに、あっ分かった、となるのだが実験で観察していると試行錯誤の段階で答えに近づいているさまが見て取れるらしい。「ひらめきのための準備は着々と進んでいるのだが、多くの実験参加者はそのことにはまったく気づいていない」「失敗を通して徐々に学習が進んでいるのに、どうしてそのことに気づけないのだろうか」「意識がボンクラだとすれば、思考を重ねる中での学習は何が支えているのだろうか。それは無意識としか考えようがない」「こうして多様性が高まることで、洞察が得られやすくなるというわけだ」
最後に、現代の教育について批判し、能力や知識の捉え方を間違った「素朴教育理論」であるとする。そしてその処方箋を示すのだが、ここは論拠が弱いうえにすべて賛成というわけでもないので割愛する。著者もあまり賛同は得られてないという書きぶりだったので、各々自分で考える叩き台にするくらいがよいのではなかろうか。
ずいぶんと長くなってしまったけど「知識は伝わらない」ので実際に読んで知識を構築してみてほしい。良くも悪くも構築できた分だけが自分の知識である。

アブダクション

それで、どうやら『言語の本質』『私たちはどう学んでいるのか』の著者はともにアブダクションを重視しているらしい。そこで『言語の本質』の参考文献にも挙げられていた『アブダクション』を読んでみた。内容は要約すると『言語の本質』に引用された内容そのままになる感じでした(引用が優秀すぎる)。
3つの推論、演繹・帰納・アブダクションのうち、帰納とアブダクションの2つは拡張的推論である。帰納は「われわれが事例の中に観察したものと類似の現象の存在を推論する」(同じグループ全体にも当てはまると推論)。アブダクションは「われわれが直接観察したものとは違う種類の何ものか、そしてわれわれにとってしばしば直接的には観察不可能な何ものかを仮定する」。
<アブダクションの定式化>
  驚くべき事実Cがある。
  しかしHならば、Cである。
  よって、Hである。
何らかの説明を与えるためこじつけ的にでも仮説を作り出す。「アブダクションは論理的諸規則によって拘束されることはほとんどないが、しかしそれにもかかわらず論理的な推論」である(演繹のみを論理的とみなすのは狭すぎる)。仮説は何でもいいというわけではなくて、比較検討して最も筋道のとおったものを選び続けなければならない。
<仮説を選ぶ優先度>
  もっともらしさ、検証可能性、単純性、経済性

さて、面白いと思ったのは次のこと

アブダクションの提唱者パースは、人間の精神には本来「自然について正しく推測する本能的能力」が備わっているという進化論的事実を認めること、が自分の探求の前提だとする。人間の精神は考えられうるあらゆる仮説のなかから、ある有限回の推測によってもっとも正しい仮説を考え当てることができる、と主張している。
これです。最初にもどって、これはまさに「ヒトと動物を分かつもの」について述べていると言えるわけです。『言語の本質』はこの大きすぎる仮説を言語の分野から論証するという構造でもあるのではないか。そして『私たちはどう学んでいるのか』は学びや成長という側面から同じようにこの仮説を支えるという構造になっているのではないか。
こうしてみるとやはりアブダクションの重要性が納得できるし、非論理的な推論だとか帰納推論の一部だとか言われたら強く反論したくなる気持ちもわかるというものである。
たくさんの仮説を思い浮かべてロジカルに最もあり得そうな仮説を選び、絶え間なく別の仮説を思い浮かべたり仮説を選び直したりしていく。それがどのフェーズであっても人間の学習や成長の基本であり、教える側はそれを十分理解した上で、相手がどの段階にいるのかを見極めようとする努力が必要なのではないでしょうか。

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