くだらない話 其の三
ここで話すのは、しょうもない女の、くだらない、ありふれた話だ。どんな女でも女は女だし、いつだって女の敵は女だ。女であれば大概の人間は通る道だろう。そんな程度の話だ。
女は煙草に火をつけた。紫煙をくゆらせながら、もう20年程も前のことを思い出していた。
女が20を過ぎる頃、男ができた。その男は別段恰好が良かったわけでも口説き上手だったわけでもなかったが、どこか惹かれるものがあった。何に惹かれていたのかは今となっては思い出せそうにもない。ただの若気の至りだったのか、学生の恋愛ブームだったのか、それとも、直感だったのだろうか……
わからない。
兎に角、惚れていたことしか女は覚えていない。
女はほとんど毎日男といた。惚れた男が隣にいて退屈することなどなかったし、くだらないことでも女はけらけらと笑って過ごせていた。なにより女が知らないことをその男は饒舌に語り、女の視る世界を広げてくれた。
煙草もそのひとつだった。
女は煙草が嫌いだったが、男が吸っていたので、仕方なく我慢していた。どうにも鬱陶しいが一向にやめる気配がなかった。腹が立って仕方がなかったので、なら私も吸ってやろうと、吸いはじめた。苦くてむせてしまったのを今でもよく覚えている。
女は嫌いなものが、もうひとつあった。
「自分の思いが伝わらないこと」だった。
今となっては女もそれなりに歳をとり、下の者も大勢いる。女を慕う者もそれなりにおり、伝えるべきことを的確に伝える術を持っているが━━━━━━━あの頃はそうではなかった。
「くだらないなあ…」そう呟きながら、女は煙を吐き出した。
男の周りには女が多かった。別に男の恰好が良かったわけではなく、単に環境がそうであっただけだ。どうしようもない。そんなどうしようもないものに嫉妬するほど女は愚かではなかったが、腹が立つことにその男には仲の良い女が複数人いた。それも環境の上では仕方がなかったが、女にだけ向けられるはずの男のその笑顔が他の女にも向けられると考えると腹の底が熱くなった。男を疑っているわけでもなかったが完全に信用しきっているかと言えばそうでもなかった。
男はよく周りの女と酒を呑んだりしていた。何度も男に伝えようとした。「口」ではなく、「顔」や「文字」で━━━━それも直接伝えるのではなく、「空気で伝わる」ように。インターネットの海に流して「伝わればいい」と、思っていた。
男にそれが「伝わっていた」かどうかは定かではないが、男は何も変わらなかった。よく女と遊び、語り、交わり、笑っていた。無論、他の女と会うことも変わらなかった。
あの時の私が悪かったのだろうか。私が直接「伝えて」いれば、男は変わったのだろうか。吐き出す煙のように、思考が揺れては、空気に溶けていく。
「伝えたいこと」が「伝わらない」ことほど、虚しいものはない。くだらない。女は別に男に変わってほしかったわけではなかった。ただ、言葉に出来なかっただけだ。どうしようもできないこの妬みを伝えたって、男には何も出来やしない。「仕方がない」とかそういった類の言葉しか返ってこないのだから。そんなことを考えながら煙草を吸い、男が逢いにくるのを待っていた。
その日も、女は「伝え」きれずにいた。
ある時、男から別れを切り出された。人と人だ。別れぐらいは誰しも経験するだろう。しかし女は目の前が真っ暗になるような感覚を初めて抱いた。
「なんで……っ」
それしか言葉が出なかった。私が何をしたというのだろう。惚れていた私が馬鹿だったのだろうか。これ程まで尽くした男などいないと自負できるほど、男に尽くしてきたではないか。嫌いだった煙草も吸うようになった。ほとんど毎日男といた。初床を捧げたのも、その男だった。男を信用しきっている訳ではなかったものの、男を許していた。
「お前言いたいこと言わないじゃん。俺と違って。態度とか表情でなんとなくはわかるけどさ、やっぱりわかんないよ。俺にどうしてほしいとか、思うとこあると思うけどそういうの全く言わないじゃん。いつも何かあれば言ってって言ってたのに、何も伝えようとしなかったじゃん。1年一緒にいてずっと思ってたよ。でももう、我慢の限界だよ」
「だったらっ……!ちゃんと」
「もう、疲れた。」
その一言で、女は崩れ落ちた。涙も嗚咽すらも出なかった。
女の前に男が現れることは二度と無かった。
あの時、私が嫌だとか、貴方の方こそ、だとか、「伝えて」いれば、なにか変わっていたのだろうか。SNSなんかに書き込んでみたりだとか、そっぽ向いて無視したりだとかしてなあ。くだらないことをしたなあ。本当に、くだらないなあ。
男はいつも言っていた。「言いたいことがあるなら、必ず言ってほしい」と。
それを「言わなくても察して」とか言ってたっけ。
なんか、懐かしいな。
そんなことを思いながら、女はまた、煙草に火をつけた。
いつもより少し、苦く感じた。
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